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2007年09月12日

WWOOF中

数週間ばかり更新できません。現在、WWOOFのファームステイをしています。ここは衛星テレビ、衛星電話、衛星インターネットと、ものすごい田舎でして、勿論、携帯電話も圏外です。ネットもホストのパソコンを借りているので、自由に使えません。ブログを書き続ける意欲は当然の如くありますので、もう少々お待ちください。 日豪の編集様、ちょっとばかり見逃してください。まだ日本の皆様にお伝えしたいことがあります! ちなみにここは水道管がないので、雨水を利用。牛、山羊、ニワトリなどがいます。かなり力仕事ですが、ホスト夫婦は良い人です。味噌汁と肉ジャがを喜んでくれました。

2007年09月04日

白人の協力者


 憲法改正前「1933―1966」の前半。次に1940年代を代表する活動家としてご紹介しますのが、アボリジニの協力者であった、白人のDon McLeod(1908-1999)。

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 1946年5月1日、西オーストラリアのPilbara(ピルバラ)地方で、600人ものアボリジニ労働者が参加した大規模なストライキが発生しました。後に、ピルバラストライキと知られる、このストライキは、牧畜業者に雇われていたアボリジニ労働者の労働条件と賃金の改善を要求したものでした。
 Mcleodは、このストライキの中、アボリジニを扇動したとして逮捕された、指導者の一人です。彼はMeekatharra(モンキーマイアから内陸に入った所にある金山の街)で生まれた最初の白人の子供でした。彼は、コミュニストの活動家として、白人の牧畜業者と政府、警察の間の癒着を断ち切り、アボリジニの平等を求める活動をすることを決意しました。

 ピルバラストライキに向けた活動自体は、1942年から始まっています。異なる言語を有する23の部族から、凡そ200人の代表者が集まり会合が開かれました。アボリジニの法執行官だったDooley Bin BinとClancy Mckenna、そしてMcLeodによって、ストライキは指導されました。
 ストライキが始まった当初、雇用主の一部は、仕事に戻ることを条件に、賃金の値上げに応じました。しかし、他の雇用主は警察を呼び、指導者を逮捕する方針を取りました。指導者の一人だったMcleodが、ストライキの開始された同年に逮捕された後も、ストライキは3年に及んで続き、牧畜業者が賃金の支払いに応じた1949年に終結しました。
 彼は同じ白人から裏切り者とされ、逮捕後の保釈の申し出は拒否されました。

 異なる民族の対立というのは、歴史の中で飽きもせず繰り返されてきました。その中にあっても、お互いを理解し協力しあう人々が必ず現れることで、未来が築かれてきたのかもしれません。

「The journey」では彼の哲学をこう紹介しています。
『Treat everyone as an equal
 ; do the right thing to others and they'll do likewise.
Don't put flowers on a bloke's grave
-help him out now.』

人を全て平等に扱いなさい。
人に正しいことを為せば、彼らもそうすることでしょう。
彼の墓に花を手向けるのではなく、
まさに今、彼を助けなさい。

2007年09月02日

アボリジニの長老達の活動

  憲法改正をめぐる長い旅は、時のイギリス国王ジョージ六世にあてた、アボリジニの長老の請願書から始まります。
憲法改正前「1933―1966」の前半、1930年代を象徴する活動家。アボリジニの長老、Yorta Yortaの人、William Cooper(1861-1941)。彼の人生の大半は、彼の同胞、アボリジニの権利獲得のために捧げられました。
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 1933年、70歳を越えた彼を代表として、イギリス国王ジョージ六世への請願書が着手されました。彼がかつてアボリジニの保護委員会で発言した言葉を引用したものを、下の写真に載せます。
『On behalf of my people, I have the honor to most humbly approach you.・・・』
(私の人民のために、恐れ多くも請願いたします)
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 英語に全く詳しくない私がこんなことを書くのは憚れますが、ここに書かれている文章からは、非常に丁寧で教養の高い印象を、私は受けました。
『….his utmost in taking suitable steps in preventing the extinction of the Aborigines race.』
 アボリジニの断絶を防ぐ、という切実な願いのために、彼らが望むことは、
『Obtaining better conditions for all.』 (全ての民の生活向上)
『Obtaining power to propose a Member of Parliament to be chosen by my people to represent them in federal parliament.』
(アボリジニを代表する議員を連邦議会に推薦できる権利)

 二千人の署名を集めた請願書は、1937年に連邦議会に届けられ、イギリス国王へ送り届けて欲しいとの彼らの願いは議会に承認されました。しかし実際に、イギリスに送られた記録は残されていないそうです。
 
 そして、請願書から5年後の1938年。彼は仲間と共に、今度はアボリジニの最初の公民権運動として知られる集会を、シドニーで催します。それは「Day of Mourning」(哀悼の日)。開催日は1月26日。1788年、初代総督アーサー・フィリップスが率いる船団(ファーストフリート)がポートジャクソンに上陸し、白人の移民の歴史が始まった、まさにその日です。特に1938年はそれから150周年の記念の年にあたりました。オーストラリアの白人達が「建国記念日」と祝うその日を、彼等は「Day of Mourning」と称したのでした。
 彼等の目的は、「白人によるアボリジニに対する無神経な(Callous)扱い」に抗議することで、アボリジニのための教育を保証する新法、平等な市民権を求めました。
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