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2007年11月23日

彼らの彼らによる彼らのための組織

 当たり前のことを書くかもしれませんが、他人から一方的に与えられたものというのは、それほど嬉しいものではありませんね。お金をくれるというのなら喜んでおこぼれに預かりたいほど、今、お金が欲しい私ですけど。まあ、それは冗談として。自分自身の努力で獲得したことは、まさに自分自身の血や骨や肉となって、確かな存在感でもって生き続けますね。

 現代を生きるアボリジニの方々が、現状の問題を解決したいのであれば、それはアボリジニの方々自身の手で成し遂げるべきだと思っています。と同様に、現代の日本は余りにも多くの問題を抱えていますけど、それも日本人自身の手で解決しなくてはいけないんだと思います。 他人に解決してもらったら、何も面白くないですよ。

 自分達の問題を自分達自身の手で解決するから、自分達の歴史にすることができる。でも、自分達の手だけでは小さな力だから、そこに他者との協力が生まれ、大きな力となって歴史が動いていく。

 蛇足気味なことを書きますけれど、「アメリカが戦後日本に自由をもたらした」と簡単に断定するのは、あんまり愉快ではないですね。歴史に詳しくない私がこんなこというのもアレですが、江戸だとか明治大正昭和と自由を求める日本人の活動家はいて、そういう人達が壮絶に戦い続けてきた結果でもあるんです。私達日本人は、もっと自分達の祖先の血の滲むような努力の上に、自分達の生活が築かれていることをもっと感謝すべきだと思いますよ。日本人のご先祖様は立派だったということを、きちんと認識すべきだと思うんです。

 余計過ぎる前置きが長くなりました。 今日から再び、1967年の憲法改正にまつわる展示会、The Journeyを引き続きご紹介したいと思います。

 時は1958年、場所はアデレード。the Victorian Aborigines Advancement League(VAAL)等、8つの組織の代表者25人が、ある目的のために一堂に会しました。それはアボリジニへの差別を無くし、平等の権利を獲得するために、共に力を合わせること。
  アボリジニのアボリジニによるアボリジニのための組織を結成すること。

 会合は成功に終わり、Bert Groves(NSW)、Doug Nicholls(Vic)、Jeff Barnes(SA)を代表として、最初の全国的なアボリジニの組織、the Federal Council for Aboriginal Advancement(FCAA)が結成されました。


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 そして1962年、FCAAの年次協議会は、全国規模の請願活動を開始します。
 請願書は、賃金や雇用機会での差別や、先祖伝来の土地所有の権利を否定されていることに言及。FCAAはアボリジニの権利の平等、生活水準の向上、給料格差の是正、産業保護、無料の義務教育、アボリジニを所有者とする保留地の保持を求めました。

 一年に渡り、全ての州都や地方都市、田舎町まで及んで、路上にて署名活動が続けられた結果、10万人の署名を集めました。これは当初の目標25万人より少なかったとのことですが、平日仕事を終えた後や週末に、ボランティアの手によって、署名活動は支えられたのでした。

 こうしてFCAAは、Torres Strait Islanders(FCAATSI)共に、憲法改正への推進役としての役目を果たしていきました。

2007年10月19日

残された請願書

 ※今回は引き続き、アデレードでみた1967年の憲法改正を物語る展示会「The journey」についてご紹介します。

 請願書には、どの程度の効力があるのでしょうか?
 請願とは人民が統治者に対し希望を述べてその実現を願い出ること。君主に対して誓願しても処罰されない権利として、日本国憲法でも基本的人権の一つとして数えられていて、言論・出版の自由や議会政治の発達とともにその重要性を失ったそうです。日本の請願法(1947年)によれば、国会に対する請願は議員を通じて、他の官公署には管轄官公署に書面で提出する。しかし、請願を受けた機関は回答したり、希望通りの処置をする義務があるわけではないそうです。(以上、マイペディアを参考)
 
 請願書とは、立場の弱い人間が困窮する状況を打開するためにとれる数少ない手段の一つ。暴力に訴えず、平和的に合法的に現実を変える手段。請願書には、数多くの人々の強い思いが、ぎゅうぎゅうに詰め込まれているのだと思うのです。
 その思いに比べれば、蟻んこみたいなものですが、実は私も会社を辞める前に、会社のエライ人へ請願書もどきを送った経験があります。返事はありませんでした。せめて読まれていれば有り難いですが、メールで送った文章は、おそらく秘書さんの手でポイとごみ箱に直行して終わりだったでしょう。
 訴えるという行為は弱いです。訴えて、それが効力を持つには、訴えられた側の人間の力量に左右されるからです。請願書を受理するのも破棄するのも、訴えられた側次第。
 しかし、これからご紹介する請願書は、今、私達がその存在を知ることができる形で、きちんと残されました。
 まずご紹介しますのが、1967年の憲法改正へと繋がる、ほぼ同時期にだされた2つの請願書。
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 1957年にThe Aboriginal-Australian Fellowshipは、憲法改正を求める請願書をだしました。続く1958年には、The Federal Council for Aboriginal Advancementが、ほぼ同様の内容の請願書を、3ヶ月間で二万五千人以上の署名を集めて、議会に提出しました(上の写真)。これらの請願書が求めた、Section 51の(xxii)とSection 12の項目の改正は、後に見事に実現することになります。

 次に、アボリジニの文化を象徴する木の皮に書かれた請願書。アボリジニアートが施された美しい請願書です。
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 この請願書は、1963年、Yirrkalaの複数のアボリジニグループを代表する9人の署名入りで、議会に提出されました。アボリジニのGumatjの言葉と、訳して英語によって書かれています。アーネムランドの彼ら伝来の土地で、彼らに無断で採掘や土地の削除が行われていること。また、その土地は、太古からYirrkalaの人々の狩猟や採集の土地であることを訴えました。

 これらの残された請願書の背後に、どれだけ多くの捨てられた請願書があるのか、請願もされずにかき消された多くの人々の思いがあるのかを考えます。今に残る請願書は氷山の一角であり、どれほどたくさんの思いが、うねりとなって歴史の流れを作り出しているのか?
 訴える、思いを伝えるという行為は、全くの無駄に終わることも多いかもしれないが、少しでも何かを変えることができるのかもしれない。思いをのせて届けられた、これらの請願書は、確かに歴史に足跡を残したのだから。
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2007年09月04日

白人の協力者


 憲法改正前「1933―1966」の前半。次に1940年代を代表する活動家としてご紹介しますのが、アボリジニの協力者であった、白人のDon McLeod(1908-1999)。

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 1946年5月1日、西オーストラリアのPilbara(ピルバラ)地方で、600人ものアボリジニ労働者が参加した大規模なストライキが発生しました。後に、ピルバラストライキと知られる、このストライキは、牧畜業者に雇われていたアボリジニ労働者の労働条件と賃金の改善を要求したものでした。
 Mcleodは、このストライキの中、アボリジニを扇動したとして逮捕された、指導者の一人です。彼はMeekatharra(モンキーマイアから内陸に入った所にある金山の街)で生まれた最初の白人の子供でした。彼は、コミュニストの活動家として、白人の牧畜業者と政府、警察の間の癒着を断ち切り、アボリジニの平等を求める活動をすることを決意しました。

 ピルバラストライキに向けた活動自体は、1942年から始まっています。異なる言語を有する23の部族から、凡そ200人の代表者が集まり会合が開かれました。アボリジニの法執行官だったDooley Bin BinとClancy Mckenna、そしてMcLeodによって、ストライキは指導されました。
 ストライキが始まった当初、雇用主の一部は、仕事に戻ることを条件に、賃金の値上げに応じました。しかし、他の雇用主は警察を呼び、指導者を逮捕する方針を取りました。指導者の一人だったMcleodが、ストライキの開始された同年に逮捕された後も、ストライキは3年に及んで続き、牧畜業者が賃金の支払いに応じた1949年に終結しました。
 彼は同じ白人から裏切り者とされ、逮捕後の保釈の申し出は拒否されました。

 異なる民族の対立というのは、歴史の中で飽きもせず繰り返されてきました。その中にあっても、お互いを理解し協力しあう人々が必ず現れることで、未来が築かれてきたのかもしれません。

「The journey」では彼の哲学をこう紹介しています。
『Treat everyone as an equal
 ; do the right thing to others and they'll do likewise.
Don't put flowers on a bloke's grave
-help him out now.』

人を全て平等に扱いなさい。
人に正しいことを為せば、彼らもそうすることでしょう。
彼の墓に花を手向けるのではなく、
まさに今、彼を助けなさい。

2007年09月02日

アボリジニの長老達の活動

  憲法改正をめぐる長い旅は、時のイギリス国王ジョージ六世にあてた、アボリジニの長老の請願書から始まります。
憲法改正前「1933―1966」の前半、1930年代を象徴する活動家。アボリジニの長老、Yorta Yortaの人、William Cooper(1861-1941)。彼の人生の大半は、彼の同胞、アボリジニの権利獲得のために捧げられました。
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 1933年、70歳を越えた彼を代表として、イギリス国王ジョージ六世への請願書が着手されました。彼がかつてアボリジニの保護委員会で発言した言葉を引用したものを、下の写真に載せます。
『On behalf of my people, I have the honor to most humbly approach you.・・・』
(私の人民のために、恐れ多くも請願いたします)
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 英語に全く詳しくない私がこんなことを書くのは憚れますが、ここに書かれている文章からは、非常に丁寧で教養の高い印象を、私は受けました。
『….his utmost in taking suitable steps in preventing the extinction of the Aborigines race.』
 アボリジニの断絶を防ぐ、という切実な願いのために、彼らが望むことは、
『Obtaining better conditions for all.』 (全ての民の生活向上)
『Obtaining power to propose a Member of Parliament to be chosen by my people to represent them in federal parliament.』
(アボリジニを代表する議員を連邦議会に推薦できる権利)

 二千人の署名を集めた請願書は、1937年に連邦議会に届けられ、イギリス国王へ送り届けて欲しいとの彼らの願いは議会に承認されました。しかし実際に、イギリスに送られた記録は残されていないそうです。
 
 そして、請願書から5年後の1938年。彼は仲間と共に、今度はアボリジニの最初の公民権運動として知られる集会を、シドニーで催します。それは「Day of Mourning」(哀悼の日)。開催日は1月26日。1788年、初代総督アーサー・フィリップスが率いる船団(ファーストフリート)がポートジャクソンに上陸し、白人の移民の歴史が始まった、まさにその日です。特に1938年はそれから150周年の記念の年にあたりました。オーストラリアの白人達が「建国記念日」と祝うその日を、彼等は「Day of Mourning」と称したのでした。
 彼等の目的は、「白人によるアボリジニに対する無神経な(Callous)扱い」に抗議することで、アボリジニのための教育を保証する新法、平等な市民権を求めました。
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2007年08月29日

1967年の憲法改正

「The Journey ― 40 Years On」。1967年の国民投票と憲法改正の歴史を物語る展示会を、これから数回に渡りご紹介します。
 Reconciliation Weekのイベントの一つとして、5月15日から7月15日に開催。アデレードの南オーストラリア博物館、常設展示のアボリジニギャラリーの奥、小さな一室が、「The Journey」の展示会場でした。

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 「The Journey」は、三部構成。転換点となった1967年を境に、夜明け前の「1933―1966」、次に「1967」、そして「1967―2007」のその後の歴史を、写真のボードに解説をまじえて教えてくれました。
 まず今回は、1967年の国民投票と憲法改正とは何であったのか?これについて書きたいと思います。
 1967年5月27日の国民投票は、オーストラリアの憲法改正の是非を問うものでした。アボリジニに関する憲法の項目の改正です。結果、90%以上の圧倒的多数の「YES」で票決され、その年の9月に改正された項目は次の二点。(誤訳がありましたら、どうか教えて下さい)

 はじめに、Section 51の(xxii)。
The Parliament shall, subject to this Constitution, have power to make laws for the peace, order, and good government of the Commonwealth with respect to:-
連邦議会は、次に該当する人民のために法律を制定する権限を持つ。
その対象となる人民は、
(xxvi)The people of any race, other than the aboriginal people in any State, for whom it is necessary to make special laws.
 アボリジニ以外の人々。
 この「other than the aboriginal people in any state」の部分を外したことが、改正の一点目です。
 これによって初めて、アボリジニの人々にとって『有益』になる法律を、議会が制定できるようになりました。言い換えれば、この改正前においては、国はアボリジニの幸福や利益を守るためには機能していなかった。そう言えるかと思います。

次に、Section 127。
In reckoning the numbers of the people of the Commonwealth, or of a state or other part of the Commonwealth, aboriginal natives should not be counted.
 人口調査にアボリジニは算入されない。
 この項目自体を全て削除したことが、改正の二点目です。それにより、アボリジニも国の国勢調査の対象となったのでした。

 ところで、Reconciliationの象徴的な「1967年国民投票」を、私は初め、アボリジニの選挙権や市民権を認めたものと勘違いしていました。そう誤解している人が、オーストラリア人の中にも少なからずいるようで、この展示会でも、この誤解について触れています。その説明によると、それらは1967年以前から認められていたそうです(選挙権は1962年、クイーンズランド州のみ1965年。市民権は1948年)。しかし、それらが真の意味を持たなかったのが、1967年以前の時代。
 次回から、憲法改正前「1933―1966」の約三十年間に及ぶ、アボリジニと白人達の活動の歴史をご紹介したいと思います。