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穴場!ブリスベン

2007年10月14日

 北はケアンズ、南はゴールドコーストに挟まれて、ちょっと目立たないクィーンズランド州の州都がブリスベン。今まで目的地とした中で最低レベルの期待度でしたが(スミマセン)、その分、良さを知った後の感動はひとしおでした(ちなみにメルボルンは最高レベルの期待度だった分、がっかり感が一番でした)。ブリスベンは、なかなかの穴場ですよ!
? ゴールドコーストを代表するサーファーズパラダイスでブラブラしているより、早くブリスベンにくれば良かったなあと自分は後悔しています。ブリスベンより日本人がいっぱいのサーファーズパラダイスは、遊園地だとかお金をかけないと遊べない所ばかりなんですよね。金持ちとサーフィン大好きの方なら、その名の通り楽園でしょうが、時々朝昼飯をケチって一緒にしちゃうような節約旅の私には、波打ち際でトドよろしく波にもまれて笑ってるぐらいしかないです。まあ、それも非常に『非常に』楽しいのですが! 
 週末にちょろっとサーフィンを楽しみたいぐらいなら、ブリスベンに住めば宜しいです。ブリスベンからサーファーズパラダイスまで、バスで1時間ぐらいしかかかりませんから。ブリスベンの方が勿論街の規模が大きく、ショッピングの選択の幅も広く便利ですよ。

 ところで、ブリスベンで私が最も好きなのは、州立図書館です!(また、マイナーどころですね)。建てられて、やっと一年になろうかという建物は、非常にお洒落でモダン、インターネットや本を読むスペースは一流ホテルのロビーみたい。

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 私は図書館が大好きで、パース、アデレード、メルボルン、シドニーと調査を続けてきましたが、ブリスベンが一番好きです。メルボルンの宮殿のような図書館もステキなんですが、一市民の 私は圧倒され過ぎてちょっと落ち着かないですね。
 ここは美術館や博物館、植物園も充実しています。なんといっても建物が新しくてキレイでステキ。無料で楽し めるこれらの文化施設こそが、私の観光名所です!サーファーズパラダイスの最大の弱みは、こういう無料文化 施設がないことですね。 
 そして、こんな感じの私にとって、ブリスベンは穴場なのでした。その辺をご了承おき。

  そんな訳で、数日前からブリスベンに潜伏中です。ブリスベンについて話したついでに、私の大好きな木の花も ご紹介しましょう。今、ブリスベンでは、この花がちょうど満開。あちらこちらの街角に、鮮やかで美しい色を 添えています。
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 木の名はジャカランダ。植物園の無料ガイドツアーのガイドさんの話では、オーストラリアの木ではなくブラジ ル原産です。移民が持ち込んだんですね。オーストラリアではここクイーンズランド州こそが、この木が最 初に植えられた所だそうです。藤の色を思い起こさせる雅な紫には、いつもウットリ。そして、風に吹かれて花 が散る様は、桜に相通じるものを感じます。実際は花びらが散るのではなく、ラッパ型の花全体が落ちるんです が。「紫の桜」は本当に美しく、私の大のお気に入りです。この花のおかげで、ブリスベンの私の印象もアッ プしたのでしょう。
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 それでは、このブログの主旨、アボリジニに関する情報を、触りだけ今回お伝えします。
 まず、ブリスベンはアデレードと似たような感じがします。アボリジニの情報をキャッチし易いです。実は、メルボルンとシドニーは、アボリジニの情報を非常にキャッチしにくく困ってました。この二つの大都市に、アボリジニに関する情報がないのでは決してありません。ただ、鬼太郎の髪の毛のアンテ ナの如く、私の情報をキャッチする「アボリジニアンテナ」の感度がどうも鈍らされてしまっていました。そこ には、刺激や情報があまりにも多すぎて。単純にいえば、他にも楽しいことが盛沢山の街だから?また、大都市 だけあって、アデレードと違ってアボリジニを見かけることがほとんどなく、大都市の雑踏に、彼らの影がかき 消されてしまっていたようにも感じます(観光の世界は別にして)。蛇足気味に付け加えれば、アデレードのア ボリジニ(Kaurna)が、私が訪れた州の中でも、最も際立って表舞台で(観光でなく、政治などの公の世界で) 活躍していると思います。あくまでも、少しかじった程度の人間の所感ですけど。
 アデレードの情報量には及ばなくとも、ブリスベンの情報は、分かり易い形で、非常にコンパクトにまとまって いるように思います。

 後程、詳細をご紹介するスポットは、州立図書館の中にある情報資料センターKuril dhagun、博物館の中にある 展示コーナーDandiiri Maiwar、現代美術館GoMAの現代アボリジニアート、などです。市内にある植物園では、アボリジニと白人にまつわるステキな話も知ることができました。
 これから、未だ途中のアデレードでの出来事(特に国民投票にまつわるThe Journeyは是非とも皆様にお伝えし なくてはならないことと考えています)と交互に、現在進行形のブリスベン情報をお伝えします。

アボリジニin オージー家庭

2007年10月09日

WWOOFでは数多くの貴重な体験をしましたが、今回は、アボリジニに関することを少しばかり。一般のオージーの家庭で、実際にアボリジニがどう思われどう扱われているのか、私には興味があることです。
まず、真っ先に遭遇したのが、トランプです。日本では大人がトランプに興じるのは一般的ではないと思いますが、西洋の文化では大人こそトランプで遊ぶようですね。仕事の合間に必ずといっていいほどしたトランプ。そのカードの柄がアボリジニアートでした。そして、壁にはアボリジニアートが幾つか飾られていました。アボリジニアートはオージーの家庭に、ごく普通に取り入れられているように感じます。

また、オーストラリアの音楽として、ディジェリドウの現代アーティストの曲も聴かせてくれました。コンサートも観に行っていて、CDはサイン入り。ディジェリドウとロック調の音楽を組み合わせたものでしたが、私が「この人は有名なアーティストか?」と聞くと、渋い顔で「そうは思わない」との答え。実は私も同感で、感想はそんなにイイ曲じゃないな(笑)。こう、辛口の感想を書けるのも、オーストラリアの滞在も長くなってきて感じてきましたが、ディジェリドウは決して珍しいものではないのです。ディジェリドウの現代アーティストというのは、巷にたくさん存在している。彼は、あくまでもその中の一人であって、「ディジェリドウだったら誰の曲であっても素晴らしい」と感じる必要はないわけです。けれど、私が思うに、それはたいへん良いことであって、ディジェリドウが現代調にアレンジされアーティスト同士が切磋琢磨する競争原理にさらされているということは、ディジェリドウが進化を続け、今もなお生き生きと生き続けている証拠だと思うのです。「侘び寂び」を好む、私の個人的な好みでは、ギターなど無しの純古典的なディジェリドウの音楽の方が味わいがあって好きなのですけどね。

話を戻しまして、私がお世話になったホストは、他のオージーよりも、アボリジニに興味があるのではないかと思った出来事を次に。ホストの奥さんが、満面の笑顔で私に話してくれました。ホストが、自分達のファームの地名の意味を調べたそうなのです。長い地名に英語を思わせる部分があったので、これまで英語かと思っていたが、それはどうやらアボリジニの言葉だった。そして、その意味がステキだったことを、大変喜んでいたのでした。私には、それが新鮮でした。アボリジニの言葉を気に入っているということがです。ご近所の人を招いてのパーティーでの歓談の際にも、嬉しそうに話していました。また、数日前に見た美しい虹の話題も出たのですが、ホストがRainbow Serpentと口走った時には、思わず私も「それを知っている」とはりきって言ってしまったものです。
このように、私のオージーのホストからは、アボリジニに対する好意を感じました。

ところで、私はオーストラリア人がアボリジニをどう思っているのか、たいへん興味があります。実際のところ、一般のオージーが、アボリジニに対して、どのような感情を抱いているのか是非知りたいと思っています。けれど、ホストファミリーに「アボリジニをどう思っていますか?」と疑問を投げ掛けることは、今回、出来ませんでした。答えに困ると思ったからです。アボリジニから土地を奪った祖先をもつオーストラリアの白人に、彼らをどう思うか聞く。後ろめたい歴史をもつ間柄について、どんな答えがかえってくるのでしょうか?

ここで注意事項です。実は私のホストは移民です。ご夫婦二人とも、オーストラリアとは違う国で生まれ育ち、事実上の結婚後、お子さんと共に移住してきました。だから、もしかしたら、生まれも育ちもオーストラリアのオージーとは感覚が違うかもしれません。アボリジニに対する見方も、生粋のオーストラリア人とは全く違うかもしれません。けれど、そもそも「オーストラリアの白人」とは何なのか。私は未だ多くを知らない未熟者なので、「オーストラリアの白人」=「征服民族の子孫」と捉えるところがありました。しかし、実際は、オーストラリアの白人が全て、アボリジニの土地を奪った先祖をもつわけではないのです。オーストラリアの白人の全てを一つの見方でまとめてしまう考え方は、「中国人と日本人は同じでしょ」と似たようなところがあります。世界的にみて、驚異的に単一民族国家といっても良いだろう日本で生まれ育った私は、他民族国家であるオーストラリアで、日本では気付けなかったモノの見方を学んでいる最中です。日本人は日本人の共通の歴史と文化をもつ。それは、ものすごいことですよ。一方、オーストラリア人は全てが同じというわけではないのです。それは単純なことのようだけれど、世界的にみても特殊な国だと思う日本にどっぷりの私が、それを聞き知りではなく体験で実感するには時間を要しました。

「アボリジニをどう思っていますか?」今は、この直接な疑問をホストに投げ掛けても良かったのではないかと思っています。一つに、答えに窮するかと思っていた疑問は、ホストが移民である点で、その捉え方は生粋のオーストラリア人(生粋という言葉を使うのもどうかと思いますが)とは異なっていただろう点に今は気付いていること。もう一つに、もし答えに窮したとしても、西洋の人達は、日本人が答えに窮するだろうと遠慮しがちなことに対しても、しっかり自分の意見を言おうとする気があるからです。例えば、政治の話。どうも私達日本人は、普通の日常会話で政治の話をすることに慣れていません。けれど、オージーの家庭に入って驚いたことは、小学生の子供までもが、「ハワードはこう、あの大臣はこうだ」、など、自分の意見をいっちょ前に親に話して聞かせているのです。ある日、私は、「新しく首相になった人は、どんな人か」と聞かれました。その答えを英語で上手く表現できなかった。その前に、新首相のことをまるで知らないのだから、はじめから英語の表現の問題ではなく、いろいろと反省した次第です。

WWOOF明け

2007年10月06日

皆様、お久しぶりにしております。
この前の水曜日、やっとWWOOFが終了しました。
途中、逃げ出すチャンスができそうだったのですが、敢え無く撃沈、約1ヶ月もの長い滞在となりました。あっという間に10月を迎えていました。
今はクイーンズランドに突入、ゴールドコーストに上陸しています。
ファームステイでの起きてから寝るまでの英語生活は流石に疲れまして、WWOOF直後はバイロンベイで豪遊(?)後、反動で体調不良で寝込み、次にサーファーズパラダイスで日本人の友人と思う存分日本語での会話を楽しんでから、一人旅を再開しようとしています。
明日明後日から、真剣にブログに取り組みますので、日豪のスタッフの方へ、もう少しだけ、どうか時間を下さい。

ところで、WWOOFの感想について、ちょこっとだけ書きたいと思うのですが、長所としては、英会話を勉強するには極めて良いです。皆様に是非ともお勧めします。
一緒にご飯を作って、一緒にご飯を食べて、一緒にテレビを見て、一緒に仕事をして、etc。
実際の英会話と外国の文化を学ぶには、本当に有益でした。色々なことを学びました。
しかも、6時間ほど働く代わりに、宿泊費と食費は完全にタダ、お金は全くかかりませんし、3日程の短期の滞在も普通ですので、これからオーストラリアを旅行しようという方、利用されてみてはいかがでしょうか。
次に、ちょっと悲しかったことを書けば、WWOOFのホストのご夫婦と親しくなれたのですが、もっと仲良くなるまでにはいたらなかったと、私自身が思うことです。
私が作った寿司などの日本食をご夫婦が喜んでくれたり、楽しかった思い出があり、幸運なことにホストのご夫婦が良い方だったのですが(だから一ヶ月もいてしまった訳ですが)。
しかし、より深く仲良くなろうとすればするほど、言葉の壁や文化の壁が大きく立ちはだかるように感じられました。同じ文化で育った者同士にある暗黙の了解の部分の差異、根本的な文化の違いを根強く感じました。
私達は確かに親しくなれた。けれど、どこまで私達がお互いを理解できたのかどうか、別れた後、寂しい思いがしたのも事実でした。
正直、自分の気持ちの整理が出来ていないので、その独特の寂しさを未だうまく表現できないのですが。
とにかく、たいへん良い経験をさせてもらいました。

WWOOF中

2007年09月12日
数週間ばかり更新できません。現在、WWOOFのファームステイをしています。ここは衛星テレビ、衛星電話、衛星インターネットと、ものすごい田舎でして、勿論、携帯電話も圏外です。ネットもホストのパソコンを借りているので、自由に使えません。ブログを書き続ける意欲は当然の如くありますので、もう少々お待ちください。 日豪の編集様、ちょっとばかり見逃してください。まだ日本の皆様にお伝えしたいことがあります! ちなみにここは水道管がないので、雨水を利用。牛、山羊、ニワトリなどがいます。かなり力仕事ですが、ホスト夫婦は良い人です。味噌汁と肉ジャがを喜んでくれました。

白人の協力者

2007年09月04日


 憲法改正前「1933―1966」の前半。次に1940年代を代表する活動家としてご紹介しますのが、アボリジニの協力者であった、白人のDon McLeod(1908-1999)。

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 1946年5月1日、西オーストラリアのPilbara(ピルバラ)地方で、600人ものアボリジニ労働者が参加した大規模なストライキが発生しました。後に、ピルバラストライキと知られる、このストライキは、牧畜業者に雇われていたアボリジニ労働者の労働条件と賃金の改善を要求したものでした。
 Mcleodは、このストライキの中、アボリジニを扇動したとして逮捕された、指導者の一人です。彼はMeekatharra(モンキーマイアから内陸に入った所にある金山の街)で生まれた最初の白人の子供でした。彼は、コミュニストの活動家として、白人の牧畜業者と政府、警察の間の癒着を断ち切り、アボリジニの平等を求める活動をすることを決意しました。

 ピルバラストライキに向けた活動自体は、1942年から始まっています。異なる言語を有する23の部族から、凡そ200人の代表者が集まり会合が開かれました。アボリジニの法執行官だったDooley Bin BinとClancy Mckenna、そしてMcLeodによって、ストライキは指導されました。
 ストライキが始まった当初、雇用主の一部は、仕事に戻ることを条件に、賃金の値上げに応じました。しかし、他の雇用主は警察を呼び、指導者を逮捕する方針を取りました。指導者の一人だったMcleodが、ストライキの開始された同年に逮捕された後も、ストライキは3年に及んで続き、牧畜業者が賃金の支払いに応じた1949年に終結しました。
 彼は同じ白人から裏切り者とされ、逮捕後の保釈の申し出は拒否されました。

 異なる民族の対立というのは、歴史の中で飽きもせず繰り返されてきました。その中にあっても、お互いを理解し協力しあう人々が必ず現れることで、未来が築かれてきたのかもしれません。

「The journey」では彼の哲学をこう紹介しています。
『Treat everyone as an equal
 ; do the right thing to others and they'll do likewise.
Don't put flowers on a bloke's grave
-help him out now.』

人を全て平等に扱いなさい。
人に正しいことを為せば、彼らもそうすることでしょう。
彼の墓に花を手向けるのではなく、
まさに今、彼を助けなさい。

アボリジニの長老達の活動

2007年09月02日

? 憲法改正をめぐる長い旅は、時のイギリス国王ジョージ六世にあてた、アボリジニの長老の請願書から始まります。
憲法改正前「1933―1966」の前半、1930年代を象徴する活動家。アボリジニの長老、Yorta Yortaの人、William Cooper(1861-1941)。彼の人生の大半は、彼の同胞、アボリジニの権利獲得のために捧げられました。
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 1933年、70歳を越えた彼を代表として、イギリス国王ジョージ六世への請願書が着手されました。彼がかつてアボリジニの保護委員会で発言した言葉を引用したものを、下の写真に載せます。
『On behalf of my people, I have the honor to most humbly approach you.・・・』
(私の人民のために、恐れ多くも請願いたします)
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 英語に全く詳しくない私がこんなことを書くのは憚れますが、ここに書かれている文章からは、非常に丁寧で教養の高い印象を、私は受けました。
『….his utmost in taking suitable steps in preventing the extinction of the Aborigines race.』
 アボリジニの断絶を防ぐ、という切実な願いのために、彼らが望むことは、
『Obtaining better conditions for all.』 (全ての民の生活向上)
『Obtaining power to propose a Member of Parliament to be chosen by my people to represent them in federal parliament.』
(アボリジニを代表する議員を連邦議会に推薦できる権利)

 二千人の署名を集めた請願書は、1937年に連邦議会に届けられ、イギリス国王へ送り届けて欲しいとの彼らの願いは議会に承認されました。しかし実際に、イギリスに送られた記録は残されていないそうです。
 
 そして、請願書から5年後の1938年。彼は仲間と共に、今度はアボリジニの最初の公民権運動として知られる集会を、シドニーで催します。それは「Day of Mourning」(哀悼の日)。開催日は1月26日。1788年、初代総督アーサー・フィリップスが率いる船団(ファーストフリート)がポートジャクソンに上陸し、白人の移民の歴史が始まった、まさにその日です。特に1938年はそれから150周年の記念の年にあたりました。オーストラリアの白人達が「建国記念日」と祝うその日を、彼等は「Day of Mourning」と称したのでした。
 彼等の目的は、「白人によるアボリジニに対する無神経な(Callous)扱い」に抗議することで、アボリジニのための教育を保証する新法、平等な市民権を求めました。
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