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2007年08月29日

1967年の憲法改正

「The Journey ― 40 Years On」。1967年の国民投票と憲法改正の歴史を物語る展示会を、これから数回に渡りご紹介します。
 Reconciliation Weekのイベントの一つとして、5月15日から7月15日に開催。アデレードの南オーストラリア博物館、常設展示のアボリジニギャラリーの奥、小さな一室が、「The Journey」の展示会場でした。

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 「The Journey」は、三部構成。転換点となった1967年を境に、夜明け前の「1933―1966」、次に「1967」、そして「1967―2007」のその後の歴史を、写真のボードに解説をまじえて教えてくれました。
 まず今回は、1967年の国民投票と憲法改正とは何であったのか?これについて書きたいと思います。
 1967年5月27日の国民投票は、オーストラリアの憲法改正の是非を問うものでした。アボリジニに関する憲法の項目の改正です。結果、90%以上の圧倒的多数の「YES」で票決され、その年の9月に改正された項目は次の二点。(誤訳がありましたら、どうか教えて下さい)

 はじめに、Section 51の(xxii)。
The Parliament shall, subject to this Constitution, have power to make laws for the peace, order, and good government of the Commonwealth with respect to:-
連邦議会は、次に該当する人民のために法律を制定する権限を持つ。
その対象となる人民は、
(xxvi)The people of any race, other than the aboriginal people in any State, for whom it is necessary to make special laws.
 アボリジニ以外の人々。
 この「other than the aboriginal people in any state」の部分を外したことが、改正の一点目です。
 これによって初めて、アボリジニの人々にとって『有益』になる法律を、議会が制定できるようになりました。言い換えれば、この改正前においては、国はアボリジニの幸福や利益を守るためには機能していなかった。そう言えるかと思います。

次に、Section 127。
In reckoning the numbers of the people of the Commonwealth, or of a state or other part of the Commonwealth, aboriginal natives should not be counted.
 人口調査にアボリジニは算入されない。
 この項目自体を全て削除したことが、改正の二点目です。それにより、アボリジニも国の国勢調査の対象となったのでした。

 ところで、Reconciliationの象徴的な「1967年国民投票」を、私は初め、アボリジニの選挙権や市民権を認めたものと勘違いしていました。そう誤解している人が、オーストラリア人の中にも少なからずいるようで、この展示会でも、この誤解について触れています。その説明によると、それらは1967年以前から認められていたそうです(選挙権は1962年、クイーンズランド州のみ1965年。市民権は1948年)。しかし、それらが真の意味を持たなかったのが、1967年以前の時代。
 次回から、憲法改正前「1933―1966」の約三十年間に及ぶ、アボリジニと白人達の活動の歴史をご紹介したいと思います。

2007年08月22日

私が見た虹

 ここまで書いてきたことは、このブログを書くことが決まる前のことです。まさかこんなことをするとは思っていなかった私は、十分な資料を自分に残さず、わずかに日記等に書き留めていたことと、物忘れの激しい記憶を頼りに書いてきました。そのため、いまひとつ物足りない情報であったことを、自分が一番口惜しく思っています。
 そして、これから書いていくことは、ブログにGOサインが頂けた後のことです。『ブログに書く』ことを前提に、アボリジニにまつわる物事に意識的に触れてきました。書くために資料を残すようにしましたので、少しでも噛み応えのある記事になれば嬉しいのですが、アボリジニに関心を持つようになってからわずか数ヶ月しかない付け焼刃では、そう上手くいかないとも思っています。
 今回は先に進む前に、このブログを書こうと決心した日のことを、つらつらと書かせて頂きます。

 私が旅をする中で、たまたま巡り会ったアボリジニの物事。歴史の断片。広大なオーストラリアの大海原に散らばった貝殻のようなもの。これらを、私はこれまでお伝えしてきました。いつも真面目に深刻に書いていては、どんよりとした曇り空のようなブログになってしまいそうで、努めて明るく、私が出会ったことを書くようにしてきましたが(明るい方が好きな私の性格にもよりますが)。実際の私の心情は、アボリジニについて知れば知るほど、彼らの悲惨な歴史に悲しみと苦しみを感じるようになりました。暗くて重い何かを抱えていました。
 特に、これから詳しくご紹介する、Reconciliation Weekのイベントの一つ、『The Journey-40 years on 』、1967年の憲法改正の歴史を紹介した展示会は、私に強いショックを与えました。それは、とても切ない歴史でした。しかし、同時に私は、絶望の淵から這い上がろうとする人間の力強さ、自分の同胞のために決して諦めずに強い意志で活動を続けてきた人々の尊い姿に、深く感動しました。

 その日は夕方の雨上がりでした。私は図書館や博物館のあるアデレードのノーステラス通りを歩いていました。ぼんやりと、これまで自分が出会ってきたアボリジニに関する様々な事柄について考えていました。 
 オーストラリアに来る前の私は、全くアボリジニに興味がありませんでした。その存在は知っていても、全く興味はわきませんでした。そして、オーストラリアに来たばかりの時も同様でした。
 しかし、旅の中で偶然出会ったアボリジニの貝殻。それらに興味を抱き、私は拾い集めていたのでした。
 私は自分が知ったことを、自分の中で留めておいていいものかどうか考えていました。私が知ったことを自分の中に留めていては、何一つ変わるものはないのです。けれど少しでも、私が知ったことを公共の場に置けば、何かが変わるのではないかと思いました。

 横を通り過ぎた建物の窓に、虹を見たのです。振り返れば、大きな虹が現れていました。下の写真の虹です。

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 Rainbow Serphant、「虹の大蛇」。これはアボリジニの文化が持つイメージです。アボリジニにとって、大地創造の神話と結びついた特別な存在です。そして私は個人的に、このイメージを大変気に入っています。魅了されているといってもよいほどです。
 そして、私はこの虹を見て、アボリジニに関するブログを書こうと決めました。上の写真の虹が、私の決心の最後の後押しになりました。ささいな自然現象に心を動かされるなんて、子供じみていると思われるかもしれませんが、Reconciliation Weekの旗の向こう、雨上がりの空にかかった色鮮やかな大きな虹。人間の決心には時として、自分の意図を全く越えた何かのきっかけを欲するのかもしれません。
 

2007年08月16日

この木、なんの木

 以下は、「Aboriginal Food and Plant Trail」で教えてもらったことの箇条書き。
■食べられる実
 黒紫色の小さな実。雪だるまみたいに丸い部位が二つ繋がっていて、一つは種、もう一つは食べられる果実。その名を、Illawarraz Plumとメモには書いてある。
 これ、食べてみないかとガイドさんに薦められたんです。ガイドさん、地面にたくさん落ちていた実を拾って、美味しそうに食べていました。けれど、みんなが適当に歩いていた地面の上に落ちてたもの。キレイ好きの日本人。食べることが大好きな私なのに、思わず咄嗟に断ってしまいました。代わりにガイドさんから実を受け取り食べた外人さんは、まんざらでもない顔。ああ、食べておけば良かった!
 他にも、蜂蜜の味がする実、とても甘い実など、食べられる植物がありました。

■水が飲める木
 通称、ボトルツリー。下の写真のように、幹がボトルのように膨らんでいる。 ここをカットすると水がでる。そして、フタをしておく。

水の木  

■毒のある植物
 教えてくれたのは、オレンジ色をした可愛い実と木の皮。魚の漁に使ったりした。水の中に毒のある植物を放り込み、魚を一時的に麻痺させる。
 アデレード植物園には毒のある植物も案外あります。だから、不用意に木を触ったり、実を口の中にいれたら、危ないですよ。

■道具に使える木
 一つは、べたべたして、ノリのような樹液が採れる木。paraparaとメモには書いてある。 ノリで動物を動けなくさせる。
 もう一つは、下の写真。食品を包んだり、包帯にできる木の皮。 木の皮が紙のように、ペラペラと薄く剥がれる。
紙の木  

 本当は、もっとたくさん、色々なことを教わったのですが、その全てをお伝えできないのが、非常に残念であります。身近な植物を自由に利用できたら、世界が楽しいでしょうね。
 最後に、私が驚いたのは、アデレード市内にある植物園に、食料や道具にできる植物が、『普通に』たくさんあることでした。いや、植物園というからには、特徴的で変わった植物を選んで植えているのかもしれない。いやいや、普通に生えている身近な植物を、アボリジニが知恵を使って利用してきたんじゃないか。などなど、考えました。

2007年08月14日

食べ物と植物の小道

  「Aboriginal Food and Plant Trail」の開催場所は、アデレード市民の憩いの場、Adelaide Bontanic Gardens(植物園)。予約は不要、集合場所は「Meet at the gate, Plane Tree Drive」と書かれても、土地勘の無い私にはサッパリなので、植物園のスタッフに尋ねました。しかし、「この辺でしょ」と言われた場所で待てども、誰も来る気配は無し。結局、間違っていたのですが、パンフレットをちゃんと見せて尋ねたのに・・・。自分の属する所でも、自分の担当以外はよく分からない、この適当さがオージー流(案外、こういうコトって多いんです)。開始時間は迫り、側を散歩していた中年の夫婦に相談してみる。「あっちじゃないか」と示された方へ、私が急ぎ足で向かうと、夫の方が走って追いかけてきた。「こっち、こっち!」と、手招き。アデレードの郊外に住んでいるという、このご夫婦は、わざわざ遠回りをしてまで、途中、他のスタッフに道を聞いてくれたりして、遂には、私を集合場所まで連れて行ってくれたのでした。困っている人に親身に親切にしてくれる、これもオージー流。

 既に集合していた、参加者は10人程度。八割は女性。若いのからお年寄りまで、また白人やアジア人と、年齢や人種は様々です。アボリジニのガイドはこの方。一応、公開ブログに遠慮をしまして、後ろ姿にしておいてます。

ガイドさん  

 みんなで輪になって、ガイドさんの話を聞きます。『アボリジニは数千年に渡って、植物を、食料や道具、薬、さらにはshelter(簡易な小屋でアボリジニの住居)として利用してきた』。そして、植物園を歩きながらのレクチャーが開始。特徴のある植物の前で立ち止まっては、この植物の利用法について、詳しく説明してくれました。ここで、下の写真を見てください。

メモメモ  

  これが、レクチャー時に私が書き残したメモの一部です。こんなもんです。本当は、植物の名前、形態、利用法などをきちんとした形でご報告するのが『美しい』のですが、自分の理解がこんなもんでしたので、これから箇条書きすることは簡単に、また一部間違っているかもしれませんが、雰囲気だけでも感じ取ってもらえればありがたい。
 つづく。

 

2007年08月12日

これ、食べれる?

 アボリジニの記念週間とくれば、文化紹介の催しが常套であります。その内の一つ、アボリジニガイドが植物の利用方法をレクチャーしてくれる「Aboriginal Food and Plant Trail」(アボリジニの食べ物と植物の小道)に参加しましたので、その体験プチレポートをお届けします。

 その前に。これに私を誘ったのは『生存本能 』。山にハイキングに行き、山に詳しい人がいると、見慣れぬ植物を指して食べられるかどうか、必ずといっていいほど聞く、それが私です。何かあった時に、食べられるものを知っておいた方がいいじゃないですか?(と言うと、みんな笑う)。以前、日本で、キノコのガイドをしている方が言ってました。変わったキノコを見つけると、年配の女性は、「これ、食べれる?」と聞くそうです。一方、男性は「これ、珍しい?」と聞く。ほぼ例外なく、この男女の違いが表れるそうで、生きることに対する女性の逞しさ(執念?)を感じますね。

 アボリジニの日々の食を支えていたのも、女性だったようです。女性達は徒党を組んで、食べ物の採集に向かいます。イモだとかの野菜を掘りにいったりするんですね。
 その際、子供も一緒に連れて行った。そうして、水飲み場や食べられる植物の在る場所、また、それらの採集の仕方を女性達は子供達に教えていたそうです。大地に属して生きていく術を、自然と子供達に伝えていた。教育とはかくあるべきで、学校に全てを任せる文化は貧相ですね。

 南オーストラリア博物館のアボリジニコーナーの説明パネルに、こんな一節が書かれていました。
"I helped my mother whenever she walking, you know, when I was two and three years old now...and she used to show me where to dig the yam, the vines, and the bitter yam."
 Peggy Kelinda,Western Cape York,1999
(2、3才の時分から、私は母と共に大地を歩き、母を助けてきた。母は私にyam(イモの一種)やvine(ブドウ等のツル科の植物の総称)、bitter yam が採れる場所をいつも教えてくれた。)

 一方、男性はというと、徒党を組んで、カンガルーなどの大型動物の狩に向かいます。しかし、狩りというのは、いつも成功するとは限りませんから、お父ちゃん、肩をガックリ落として、手ぶらで帰ってくる日もある。けれど、お母ちゃんが採ってきておいた野菜があるから、今夜もご飯にありつける。たまに、お父ちゃん、嬉しそうに狩りで獲れた大物をお母ちゃんに手渡して、今夜はご馳走だ。
 ってな感じだったんでしょうね。
 つづく。

2007年08月10日

Reconciliation Weekのイベント紹介(3)

 語り継ぐべきことがあります。私達日本人は、8月6日広島、9日長崎への原爆投下。原爆の恐怖を私が意識したのは、高校の修学旅行での広島訪問の時でした。原爆資料館を訪れ、語り部さんのお話を直にお聞きました。皮膚は焼けただれ、眼球は爆風で飛びだし、激痛に苦しみもがきながら、多くの方が殺された。広島で語り継がされたものは、子供だった私にとっては、ひたすら怖くて恐ろしい、恐怖体験でした。修学旅行後も一ヶ月ほど、ショックで情緒が不安定だったのを覚えています。広島で語り継がれていることは、私にトラウマを与えましたが、だからこそ私は原爆を恐ろしいものと知ることができ、二度とこんな惨劇を繰り返してはならないと思うことができます。原爆雲の下の生き地獄を具体的に語り継ぐことは、過去に犯した過ちを決して未来で犯さないために、必要不可欠なことだと思います。

 Reconciliation Weekのイベントは、前回書いたようなBBQの他にも、オーストラリアン・フットボールの記念試合、ヤング向けのディスコパーティーなんてものもありまして、お楽しみ系イベントが盛り沢山でした。一方、勿論のことですが、過去の歴史を伝えよう、語り継いでいこうというイベントも数多くあったわけです。その中の一部を、残念ながら私は参加できませんでしたが、パンフレットの記述を元にして、ご紹介したいと思います。

 『When I was Young』は幼稚園でのイベントです。幼稚園児がアボリジニの年長者を囲んで、彼等のお話を聞きます。お話会の題目は「私が子供だった時」。演奏したり、お絵かきをしたり、なかなか賑やかで楽しそうな催しです。近所の未就学児童もウエルカムとのことでした。

 『Never Turning Back』は、芸術の都市アデレードを代表する、アデレードフェスティバルセンターにて開催。国民投票をテーマに、アボリジニの人々と彼等の経験を物語にして演じた催しです。5月23日から27日まで行われていました。私が気付いたときには、終わっていたのですが観たかったですね。

 『Why A Referendum?』は、有識者を招いて、憲法改正をもたらした国民投票について学ぶ勉強会です。『Looking For Answers... What Was the Question...?』では、ダンスや演奏をまじえながら、1967年の国民投票についての若手の発表会がありました。

 「国民投票を学ぶ」という点で、実に素晴らしい催しが、世界有数のアボリジニコレクションで名を馳せる、南オーストラリア博物館で行われました。『The Journey -40 Years On 』。私はこの展示会で多くのことを学びました。これについては、後程じっくりとご紹介する予定です。

2007年08月09日

Reconciliation Weekのイベント紹介(2)

 唐突ですが、私はオーストラリアの料理って不味いって思うんです。外食といったら、チャイナタウンの「2 choice 6ドル」(日本の皆様に>おかず2品選択とご飯物もしくは麺物付き。お値段は様々だが結構ポピュラーなセット)みたいなのばかり食べてるから、そう思うのかもしれません。私の外食レベルは10ドル前後までのケチレベル(大抵はもっと安くあげるし、そもそも基本は自炊です)。そんなB級料理しか食べてないくせに、こんなことを言ってはいけないと思うけれど、日本だったら安くても、案外美味しいものがあると思うんですよね。オージー料理の一番の欠点は、場合によってはウゲーとなるぐらい味付けが濃すぎる。素材そのものの味を楽しめる日本料理は、やっぱり素晴らしいです。あと、日本のように無料の水が出てこないのが普通で、ドリンクのためにプラス300円くらいかかるのが、最もウガーとなるところ。だからいつも水筒を持ち歩いているのですが、これは余談中の余談。

 ところで、オーストラリア料理の特徴といえば、イギリスやアイリッシュ、イタリアン、中国、日本、etcと多国籍料理が上げられるのですが、で、それじゃあ、オーストラリアにしかない、オーストラリア独自のご当地料理は?とくると、余りピンとこないですね。6月下旬の大バーゲンの時に、半額で面白い本を手に入れました。手のひらサイズの『Australian Bush Food』です。この本には、カンガルーやエミュー等のオーストラリア特産の食材毎に、その食材の豆知識とブッシュ料理の簡単な調理法が載っています。プチ料理本です。そして、先住民族アボリジニの料理法をベースに、オーストラリアの食材を楽しもうという趣旨の本です。

旅には便利なプチ本
 
  ちなみに、今現在の私が思う「オーストラリア料理とはこれだ!」というものは、BBQです。バーベキューです。ただ焼くだけ、だなんて言っちゃあいけません。そして何故、私が唐突に料理の話をしたかというと、BBQの話がしたかったからです。前置きの方がすっかり長くなってしまいました。
 Reconciliation Weekのイベント。BBQパーティーが結構多いんです。『Public BBQ』、『Umoona Community BBQ』『Copley Reconciliation BBQ』、『Campbelltown Reconciliation BBQ』などなど。親睦を深める楽しいイベントはBBQなんでしょうね。そして、私はそのBBQイベントのおこぼれに預かれなかったのが残念だったなあというのが今回のオチかもしれない。

2007年08月08日

今、シドニー 


 今回はアボリジニに関係無い話ですいません。近況報告として、ちょっとだけ自分のことを書いちゃいます。
 実はもう、シドニーに来ています。ブログの方は、未だ未だアデレードの序盤までしか進んでいませんが、私自身は既にアデレード、メルボルンを通り越していたのでした。書きたいことが山積みのアデレード編。このブログを書くに至った経緯を書いた後は、意識して調べたこと、1946年の憲法改正やアデレード博物館のアボリジニコーナーを詳しくご紹介しますので、もう少しスローなブログの更新にお付き合い下さい。

 それはさておき、シドニーに来た私の第一の目的はというと、それは職探し。このブログの初めで、「日本で働いてきた蓄えがあるまで旅をする」と書きましたが、いい加減、働きたいです。その理由を美しく書けば、「人間は働いてなんぼ、という意識(強迫観念かもしれない)が元会社人間の私にはあるため」であるし、俗っぽく書けば、「貯金がすっからかんになるまで旅する度胸は私には皆無」です(笑)。職探しを始めたばかりですが、やはりシドニーの求人数は多いですね。また、大都会で物の種類も大変豊富。パース、アデレード、メルボルン、そしてシドニーと移動してきましたが、シドニーの莫大な情報量(あらゆる点で)は、私には非常に魅力的です。

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  ここで少し、シドニーの雰囲気をお伝えしたく。上の写真は、シドニーの中心部から少し離れた、閑静でお洒落な住宅街が立ち並ぶGlebeという地域にあるBlackwattle Bay沿いの遊歩道から、シドニー中心部のビルディング街を撮影したものです。添えました、いたずら書きのような地図を参照してもらいまして。シドニーのメイン道路はジョージ・ストリート。メルボルンとシドニーを電車で結ぶセントラルステーションから、彼の有名なハーバーブリッジへと向かって、緩やかな上り坂となっている、この道をひたすら歩けば、シドニーの賑やかでゴチャゴチャした都市の雰囲気を、手っ取り早く知ることが出来ると思います(と、シドニーに着いてまもない人間が言う)。しかし、箱庭のような高層ビルに囲まれた狭い道路を歩くだけでは、その全体像がいまいち掴みにくい。一歩離れた所から都市を眺めてみるのも、自分のいる世界の小ささを知ることができて、気持ちの良いものです。

 そして、この写真に写っているビルディング。これが、ジョージ・ストリートを中心に長方形のような形をしているシドニー中心部、高層ビルの大凡全てである、と私は思っているのですが、シドニー在住の方はどう思われますか?パースやアデレードは田舎でした。そして、メルボルンとシドニーを訪れ、都会ぶりに感激しました。が、意外なことに、オーストラリア最大の都市のシドニーも、東京に比べれば小さいと私は思っています。東京の、無駄かもしれないほどのバカでかさを思い知りましたね。しかし、以上の感想は、何もよく分かっちゃいない初見でありますので、これからどう、シドニーの印象が変わるか楽しみです。

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 以下はおまけ。マット・デイモンを偶然見ました。シドニータワー(写真にも写っている京都タワーみたいなタワー)の近くで、『Australian Premiere of the Bourne Ultimatum with Matt Damon Tonight』というのをやっているのに、ジョージ・ストリートをブラブラ歩いていたら遭遇したのです。すごい人だかりで、マット・デイモンはファンの側に来てサインをするなどのサービス。ところで下の写真の中心に写っている彼。ベストショットが撮れたと喜んでおったのですが、彼はマット・デイモンですか???なかなかのハンサムなので彼だと思うのですが、その判別ができない程度のミーハー根性でカメラを向けておりました。
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2007年08月04日

Reconciliation Weekのイベント紹介(1)

 『Reconciliation Week』の時期にアデレードを訪れたのは、全くの偶然でした。会期は、5月27日から6月3日までの約1週間。アデレードの博物館や図書館等の文化施設が立ち並ぶ大通りノーステラスには、会期中、下の写真のような旗が道沿いにずらりと飾られていました。ちなみに、6月下旬のファイナンシャルセール(オーストラリア経済の締め日は6月末で、この前後に大バーゲンがある!)の際は、ここに同じようにして、今度は大SALEの旗が飾られていましたよ(笑)。

旗  

 私が『Reconciliation Week』の存在に気付いたのは、Tandanyaのエントランスに置かれていた『Reconciliation Week』のパンフレットを手にしてからでした。観光地や図書館などには、必ず様々なパンフレットが置かれているのですが、私は必ずといっていいほど、面白い情報がないかどうか、逐一、それらをチェックする癖があるんです(一人旅は自分で自分の楽しみを見つけるしかないんですよ!)。それで私は、Tandanyaで遭遇したイベントが、『Reconciliation Week』によるものであり、Tandanya以外でも、アデレードとその近くで、色々なイベントが行われていることを知りました。

パンフレット
 今回と次回では、『Reconciliation Week』に、他にどんなイベントが行われていたか、少しばかりご紹介したいと思います。このパンフレットには、日付順に、各地のイベント情報が掲載されています。

 会期が始まる前、5月25日から既にイベントは始まっています。この日は、南オーストラリア博物館でイブニングパーティ。特に、今年2007年は『Reconciliation Week』の基である1967年の国民投票から40周年の記念の年であります。
 
26日は2007年のSorry day(パンフレットに説明がないので、Sorry dayが具体的に何かわかりません)。余談ですが、博物館にあるアボリジニコーナーでは、アボリジニに対して「Sorry」と言っている言葉をよく見かけます。白人の文化は謝らないと思っている私には、初めこそ其れが新鮮だったんですけど、よく考えれば、博物館にあるアボリジニコーナーというのは、あくまでも白人目線で構成されているということなんですよね。アボリジニのコーナーであるけれど、アボリジニによって作られたものではないんです。以上、余談。
 5月26日には、「indigenous とnon-indigenous」、つまり「先住民と非先住民」(アボリジニと白人達をこのように表現することが多いです)入り交じっての聖歌隊によるコンサートが行われていました。
 次回に続く。
 

2007年08月03日

ドキュメンタリー映画

 8月2日の25todayのニュース記事で、「盗まれた世代」(もしくは「奪われた世代」)に関する裁判の記事が掲載されていました。アボリジニのブログを書く機会を頂き、彼等の歴史を勉強するにつれ、「盗まれた世代」の問題が今を生きるアボリジニ達に及ぼしている、とてつもなく残酷な影響について考えます。非常に苦しい想いが致します。

 私がご紹介するTandanyaの『Reconciliation Week』のイベントも、今回が最後。ミニシアターといっても、50人以上は収容できそうな立派なシアターでは、アボリジニのドキュメンタリー映画が上映されていました。『Reconciliation Week Festival of Indigenous Film』。今を生きるアボリジニの人々に焦点をあてた、短いドキュメンタリー映画の数々です。『Reconciliation Week』の期間中、毎日繰り返し上映されました。

 ガイドツアーが終わり、私が途中から観た映画は、おそらく「盗まれた世代」の人々の話だったと思います。いつも申します通り、私の英語の読解に大変不安があることをご考慮して頂いた上で、私が観た映画についてご紹介しますと。故郷に里帰りするアボリジニの男性の姿を追ったドキュメンタリーです。おそらく、彼はアボリジニではない(白人?)の妻と子を持っています。故郷で彼はアボリジニの母と再会し、初めて父の墓参りをします。母は、息子に父の墓を今まで教えていなかったことを後悔しています。

 アボリジニの男性の、心の中の葛藤が印象的でした。故郷に向かう車を運転しながら、アボリジニの男性は胸中を苦しげに吐露します。その英語を私は十分に聞き取れなかったけれども。その苦しみは、アイデンティティの喪失であると感じました。既に自分の生活の中心となっているヨーロッパの文化と、自分の肉と血を構成するアボリジニの文化との間でせめぎ合う自分。時々声を荒げて見せる、激しい苛立ち。涙の中にある、深い悲しみ。アボリジニの母を好きだけれども、アボリジニの文化を肌身でよく理解できぬ自分。ヨーロッパ人でなければアボリジニでもない・・・。

 「盗まれた世代」に関しては、後程もう少し勉強をした後に、お伝えしたいと思っていますが、今、私が知る範囲内で少しご紹介します。オーストラリアの国の政策として、アボリジニの子供達が強制的に親元から引き離され、ヨーロッパ人の家庭で育てられた時期がありました。そのように育った子供達が「盗まれた世代」。親から子への文化の継承が完全に断たれたのです。アボリジニであるがアボリジニの文化を全く知らない。「盗まれた世代」の子供達は、自分が一体何者か、アイデンティティの問題に苦しんでいるといいます。

現代アボリジニアートの作品展

 さらに左手奥の部屋。ディジュリドウの演奏を聞いたこの部屋では、同じく『Reconciliation Week』のイベントの一つとして、『Art from Areyonga』が開催中でした。Areyongaから届いた、現代アボリジニアートの絵画と工芸品の作品展です。ちょっと調べたところによると、Areyongaは中央オーストラリア(アリススプリングスの方)のアボリジニの居住区のようですね。絵画は色彩豊かで、幾何学模様の繰り返しパターンを特徴にして、とても綺麗です。また、その文様の中に、どことなく、なじみを感じるものがありまして。日本の伝統の文様、たとえば重なる波を図案化した「青海波」のような文様があったりして、こういうセンスというのは万国共通のものなのでしょうか。ガイドツアーでご一緒した方に、「この紋様は日本にもある!」とはりきって話したりしましたが、外国で日本と似たものを見つけると何だか嬉しいのです。

 ちなみに、私はこの手のアボリジニアートを見るといつも、ミトコンドリアだとか細胞の形状のように、分子生物学的なデザインだよなあと思うのです。彼等の文様には意味があって、例えばカンガルーの足跡とか泉などを表現した文様を組み合わせて絵が描かれているんですが。実はそれ以外にも、文様の中にとんでもない秘密が隠されているんじゃないか?と、妄想したりすると色々楽しいです。古代文明といったら、エジプトだとかナスカの地上絵だとかはよく研究されていますけど、アボリジニの古代文明についても、もっと考古学的な見地から研究が行われれば面白いですね。キンバリーの先祖の神様が何だか宇宙服のような格好をしていたり、有名なカカドゥにあるレントゲン写真のような壁画など、オーストラリアにも『失われた古代の超文明』ってのが、あったりして?
まあ、そんな夢物語はさて置きまして。

 ここのアートを見ていた時、私はどことなく違和感を覚えました。その違和感が何か、思い当たらせてくれたのが、タンダーニャにあった日本語の案内文です。そうです!タンダーニャには、中国語等の他の言語に混じって、日本語のA4一枚の案内文が用意されています(思っていたより、オーストラリアの観光地で日本語の説明文を見かける機会が少ないので印象的なのです)。

日本語の説明文  

その案内文の一部を抜粋しますと、
『伝統的には、原住民美術は、岩や木に描かれたり、人の体に描かれたりする他、岩に刻み込まれたり、砂に描かれたり、木に彫り込まれたり等の形で行われてきました。今日、原住民作家はキャンパスとアクリル絵の具、布地、写真、マルチメディア等を含む種々多様な手段・手法を使い、材料についても広範囲の材料を実践的に使用しています。』

 私の違和感は、アボリジニの伝統的なアートが、ヨーロッパ式のキャンバスに描かれていた所にあったんですね。整然とした長方形のキャンバスの中に、奔放で原始的なアボリジニのアートがきちりと収まっているのです。ヨーロッパとアボリジニの文化の融合といえば、何だか響きは良いのですが、現代のアボリジニ達が抱えている、複雑で『難しい』文化を垣間見たような気がします。
アデレードの博物館に、彼等の先祖が残したアボリジニアートが展示されていますが、それらは木の皮に描かれています。そして、木の皮に描かれた絵は、アートであると共に、自然への深い祈りの心を感じます。それは芸術というよりも信仰だと思うのです。ここの展示物でそれがあったかは忘れてしまいましたが、現代のアボリジニ達は、車のタイヤを平らにしてそれに絵を描いたりもしています。単純に好みの問題だけだと思うのですが、私はタイヤに描かれた絵よりも、木の皮に描かれた絵の方が好きですね。

2007年08月01日

彼等の財産

 続きまして左手では、Reconciliation Weekのイベントの一つが開催。題して『Ways of Belonging』。副題、『Reconciliation and the Symbolic Value of the Public Space』として、1960年代から現在まで、アデレードを中心とする一帯に『築かれた』、アボリジニ達の文化や歴史を反映したもの、絵画や壁画、記念碑などを一堂に集めた写真展が行われていました。たとえば、アデレードの州立図書館の玄関前には、アボリジニの言葉で『ようこそ』と書かれた石碑が床に埋め込まれています。また、絵画では、地面の中に地層のように埋められたアボリジニの伝統文化の上に、工場などの西洋文化が築かれている絵が印象的でした。『Ways of Belonging』をどう訳したら、適当でしょうか。Belongingは所有物、財産。公共スペースに築かれた彼等を象徴する壁画や記念碑は、彼等の民族、文化の財産であります。

 私がこの写真展で最も興味をひいた壁画をご紹介します。Tandanyaは写真撮影ができなかったので、わざわざ現場に足を運んでまで撮影してきた壁画ですよ(笑)!それぐらい興味をもったので、是非ともご紹介したい。
 ポートアデレードは、アデレード市内から電車に乗って30分ほどの所にある港町。この街にあるPort Adelaide community Health Serviceの玄関口に飾られた壁画です。

community Health Service
虹の大蛇と南十字星  

 『Rainbow Serpent』。虹の大蛇。南十字星と虹の大蛇のイメージを組み合わせた壁画です。
 私は『虹の大蛇』のイメージを、この写真展で初めて知りました。写真展では、この壁画以外にも、虹の大蛇を描いたものが数多く紹介されていました。それが、アボリジニにとって非常に重要で大切なイメージであることを、後々、私は知りました。
 壁画に添えられた文章を日本語訳してみます(いつも通り、誤訳していたら申し訳ないです)。

『虹の大蛇は、多くの先住民の文化で共有されてきた、大地創造を説明するイメージである。
そして、南十字星は全ての文化で共有されるイメージであり、同じように用いられている。
この二つのイメージは、未来への私達の希望を表している。
私達の希望とは、癒し、相互理解、そして、共に手と手を取り合うこと』

 『Rainbow Serpent』は、私にとっても大切なイメージです。何故なら、このイメージを知ることがなければ、私はこのブログを書くことは決してありませんでした。そして、このブログのタイトルである『アボリジニの貝殻拾い』と、虹と貝殻の関係、数奇な偶然の一致を後に私は知るのですが、それはまた別の機会に。