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2007年07月26日

オーストラリアンフットボールの写真展

 週に一回、木曜朝11時から始まる無料ガイドツアーは、午後に変更されて行われました。ちなみに、客は私含め二人だけ。二人でごねて、強引にやってもらった感もあり・・・(笑)。ガイドさんは、ディジュリドウを演奏してくれたおじさんです。

 初めに右手に回りまして、スピーチが行われていた場所。ここでは、オーストラリアンルールズフットボールとアボリジニの関係を物語る写真展が開かれていました。オーストラリア在住の方はご存じかと思いますが、オーストラリアに来るまで全く知らなかった私のような方を含めて、少しご紹介を。オーストラリアにはフットボールが三種類あります。サッカーとラグビー(ラグビーにも2種類あるよう)、そしてオーストラリアンルールズフットボール。通称、ルールズと呼ばれている、オーストラリアンフットボールはオーストラリアだけで行われているスポーツです。見た感じはラグビーに近いのですが、ルールは結構違っているので、試合を見ても、どうなっているんだか、初心者の私にはよく分からないです。プロテクターをつけない生身なのに体当たりのシーンがかなりある、格闘技のような荒っぽさを感じますね。そして、オーストラリア人にとっては非常に重要な国民的スポーツです。街の名を掲げるチームによるリーグ戦が多々あり、テレビ中継が盛んにありますし、選手がポテトチップスのおまけカードになったりしています。さらに、ルールズはアボリジニにとっても、非常に親しみ深いスポーツです。

 アボリジニの子供達がルールズを楽しんでいる写真が飾られています。ガイドさんの話では、アボリジニは子供時代からルールズに親しんでいるそうです。ガイドツアーをご一緒したドイツ人のおばさんが、「女の子もか?」と尋ねるとYES。写真展の最も目立つ場所に、にこやかな笑顔をした一人の選手の写真があります。この選手は特に有名なアボリジニの選手。ルールズでは、たくさんのアボリジニの選手が活躍しているそうです。

私がゲットしたおまけカード

2007年07月24日

アデレードでディジュリドウ

 タンダーニャを、美術館もしくは博物館と表現していいものか悩みます。アボリジニアートのギャラリーもあるようですが、実際に行くと、常設展示というより展示物の入れ替えを頻繁に行う、企画展やイベントスペースとして使われているようです。また、博物館といえば、アボリジニに関する民俗文化財の『莫大なる』収集数を誇る、同じくアデレードにある南オーストラリア博物館こそがふさわしい。けれども、ここに行けば、アボリジニの文化に触れることができるのは確かでありまして。

 まず絶対に外せない常時イベントが、火曜から日曜の昼12時に行われる『ディジュリドウ』(didjeridu)の演奏です。私はその日初めて、この笛を知りましたが、土産物屋でも売っているわ、日本人の演奏者もいるわで、結構有名な笛のようですね。ディジュリドウは大人の背丈ほどもある長いユーカリの木の棒で、中が空洞になっています。音階を作り出す穴は全く開いていないのに、様々な音色が出せます。
ボウボウという深い音です。私は尺八に似たような音だと思いました。それにリズム感が加わり、躍動するのです。ディジュリドウの演奏は面白いです。カンガルーがジャンプして移動していく音。それを狙うハンター。ハイフェイを次々と走り去る車。ヒッチハイクをしようとして、・・・車が行っちゃった!ディジュリドウの演奏には物語が含まれています。

 演奏者のアボリジニのスタッフは、アボリジニの文字などの文化についても説明してくれます。例えば、彼曰く、この笛は虫に徐々に食べさせて中を空洞にする。今はオーストラリア各地でディジュリドウの演奏が行われているが、実は北方等の一部の地域でしか演奏されていなかった。この笛を聞いたアデレードの地のアボリジニに、ディジュリドウの文化はなかったんですね。ちなみに、タンダーニャの館内は写真撮影禁止ですので、演奏中のおじさんの絵を描いてみました。こんな感じで演奏しています。タンダーニャを訪れる時間は、この演奏会の時間ですよ!
笛を吹くおじさん
 また常時のものとして、併設されているお土産物屋さんを。アボリジニアートがプリントされたTシャツやノート等のお土産物が揃いますが、値段もお土産物屋さんの価格ですね(笑)。


2007年07月22日

アデレードのはじめの一歩

 今思い返せば、アデレードに来たばかりの私は相当疲れていました。バックパッカーホステルを渡り歩いての相部屋生活は、最早20歳前半のピチピチギャルでない私には(この表現自体が年なんですよ)、体力的にも精神的にもツライものがあります。特に私は会社員時代の負の遺産とでもいうのか、入眠障害の気があるので(ようは寝付きが異常に悪い)、どんなに騒がしくても瞬時に寝付く外国人を横目に、寝返りをうっては深いため息を心でつき。こんな繊細な(?)私でも相部屋生活を続けられるのは、一重に、条件は悪くとも安い宿に泊まってオーストラリアをもっと体験したいという好奇心の賜物です。勿論、ドミトリーならではの楽しみもありますけどね。

 その日も、なかなか体の疲れがとれず、10時をまわっても部屋でゴロゴロしていました。時間が勿体ないので、私は大抵、朝ご飯を食べたら部屋をすぐに出ますが、その日はダメでした。今日は次の宿探しをするだとか、事務的なことでも地味にやろうかな、と思っていた矢先。急遽考えを改めて、慌てて外出。私の重い体が動いたのは、私が参加したかったガイドツアーが、その日、木曜日にしか行われないと思い出したからです。それは、タンダーニャ(Tandanya)のガイドツアーでした。開始時刻は11時。

 タンダーニャはアボリジニの芸術文化を紹介する施設です。アデレードのシティ内にあり、シティを走る無料バスがこの前にも止まります。エントランスはこんな感じ。
タンダーニャの入り口
 受付で入場料を払うはずですが、スタッフがいません。また、どこか様子が変です。中に恐る恐る入ってみますと、大勢の人だかりが出来ています。その視線の先には、スピーチをする人物。そして拍手。さらに奥に進むと、立食パーティーらしき美味しそうな準備もあります。何かのイベントが行われていることは歴然でした。明らかに関係者で無い私が此処にいていいのか不安になり、側にいたスタッフらしき人に尋ねれば、問題無し。フリーのガイドツアーも午後に変更とのこと。それで、イベントが行われているスペースとは反対側で、展示物を私は見始めました。

 後で分かったことです。これは、『Reconciliation Week』のイベントの一つだったのです。アボリジニに関する憲法の改正を認めた、1967年の国民投票を記念する『Reconciliation Week』(Reconciliationは和解、調和を意味しますが、どんな日本語訳が適切か判断しかねます)。私が見た人だかりは、Metropolitan Domiciliary Care (首都戸籍管理局?) による『Launch of Reconciliation Statement Action Plan』というイベントでした。この時手に入れた『Reconciliation Week』のパンフレットによると、Reconciliationを再確認し、さらに発展した行動計画を発表するといったもののようでした。

 そして、その時期のタンダーニャ自体も、『Reconciliation Week』仕様になっていました。現代アボリジニ作家による絵画や工芸品の展示、街角で発見できるアボリジニの公共シンボルの紹介、館内のミニシアターではアボリジニのドキュメンタリー映画を上映。これらは期間限定ものですので、後に置いておきまして。まずは次回で、いつでも体験できる常時イベント等をご紹介します。

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2007年07月20日

お次はアデレード


飛行機からパース近郊を見下ろす  
? やって来ましたアデレード。パースから東へ3時間ほど、日本円にして二万五千円の飛行機の旅でした。飛行機なんて贅沢ですかね?この航空券はカンタス航空のホームページで購入した正規格安航空券。カンタスにしたのは、オーストラリア往復の航空会社をカンタスにしましたので(一年間有効のワーホリ用正規格安航空券がある)、ポイントをためる目論みもありました。ちなみに、他の格安会社は居住者でないとポイントがためられないようですし、荷物の重量制限が厳しく、荷物の超過料金を払ったら結局カンタス並の料金になったという話を聞きます。それに、カンタスはアデレードまでのフライト時間が短いのに、きちんとした機内食はつくわ、お菓子としてジャイアントコーン(みたいなの)がでるわで、結構ホクホク気分でした。注:私はカンタスの回し者ではありません。
 また、飛行機にしたのは、その頃、私は体調を崩していまして、約40時間に及ぶ鉄道やバスの旅は、体力的に無理でした。一人旅は体が資本です!
食べ物に釣られる
 さて、初っぱなのアデレードは、厳しい所でした。雨です。そして尋常でないほど寒いです。どんよりと厚い灰色の雲を見上げ、ぶるぶる寒さに震えながら、とんでもない時に来ちゃったなあ、と呆然としたものです。日本は夏になろうとしているのに、オーストラリアは冬ですから。その頃は雨ばかりでアデレードは雨が多いのかと思っていたのですが、後で知ったところによると、私が来る前は全く雨が降らず深刻な水不足だったそうです。そもそも、アデレードを州都とする南オーストラリアは、オーストラリアの中でも特に乾燥した地域に属す。バッパーの宿でも、必ずと言っていいほど、「南オーストラリアでは水が貴重なので、水を大切に使ってください」との張り紙があり、あらゆる図書館で、節水に関連した本のコーナーを見つけます。水の使用にはレベルがあって、芝生に水をまいてはいけないとか、洗車をしてはいけないとか。砂埃で汚れたバスの車体に、指でなぞって書かれた「Wash Me!」との落書きを見た時は笑いました。

 アデレードに住んでいたアボリジニ『Kaurna』は、その地を『Tandanya』と呼んでいました。その意味は、「レッドカンガルーの地」。彼等のDreamingに由来しています。アデレードには、世界有数のアボリジニコレクションを誇る、南オーストラリア博物館を初め、アボリジニの情報が揃っている場所との印象があります。次回から、私がこのブログを書こうと決めた経緯をまじえながら、アデレードでの話をお伝えします。

2007年07月18日

私がウルル行きを延期した理由

? 当初の計画では、パースからアデレードに向かう前に、ウルル(エアーズロック)を訪れる予定でした。日本を経つ前に、エアーズロック行きの航空券とYHAの宿の手配まで済ましていました。しかし、それらをキャンセルして、ウルル行きを延期しました。それは何故か?というのが、今回の話。

 私は、相部屋格安宿、もとい、バックパッカーホステルを通常使って旅していますが、この弱点といえば、テレビのニュースを満足に見られないことです。テレビが無い宿もありますし、大抵はリビングに一台あるものですが、シンプトン(シニカルな大人向けアニメ)が流れている場合が多いんですよね。外国の人は本当にこのアニメが好きですね。私はニュースが見たいのに。といっても、英語のニュースを見たところで、私の英語力では理解にほど遠いのですが、折角、オーストラリアにいるのなら、この国の事をもっと知りたいものです。そのため、図書館で現地の新聞を手にしてみるのですが、やっぱり新聞も、私の英語力では理解にほど遠いので、時々しか見ません。大の大人なら、もっと世の中の動きに敏感にならんといかんのですが。

 5月のある日、パースの州立図書館で、The Australianを手にしました(The Australianは代表的な新聞の一つ)。そして、新聞を読むというより見る感じで新聞をパラパラとしていたのです。その時、アボリジニの記事が目に飛び込んできました。英語の電子辞書片手にたどたどしく読んで、今、ウルルの拠点であるアリススプリングスのアボリジニのコミュニティで問題が発生していることを知りました。その時にはよく分からなかったことも含めて、その問題について触れてみます。

 問題は、アリススプリングスのアボリジニのコミュニティが、政府が提案した土地の賃貸契約を拒否した、ということです。長年に渡る土地の所有権問題です。私は未だこの問題をよく理解していないので、なんとも中途半端な情報になってしまい申し訳ありませんが。政府がアボリジニ居住地のインフラを整備する代わりに、政府が土地を管理し、アボリジニに土地をリースするといった内容のようでした。それを彼等は拒否したのです。

 私がこれから楽しい観光に向かおうとするアリススプリングスの地で、アボリジニ達が大きな問題を抱えているというのは、私の気を重くしました。そして、さらに気が沈んだことは、この新聞記事によって、アリススプリングスのアボリジニのコミュニティではドラッグと酒が蔓延し、大きな社会問題となっていることを初めて知ったからでした。アボリジニの聖地であり、象徴ともいえるウルルの地方のアボリジニが厳しい状況にいる現実がありました。

 勿論、ウルルの観光とアリススプリングスのアボリジニの問題を全く切り離して考えることも出来ます。しかし、私には、今、私がウルルを訪れるのは、時期尚早のような気がしました。彼等の問題が落ち着きを見せてからでも。また、ウルルを訪れるなら、もっとアボリジニについて勉強した後の方が、より多くのことを感じ取れるのではないかとも思いました。

 以上が、私がウルル行きを延期した理由の一つです。実のところ、エアーズロック行きの飛行機が出発する予定日まで、パースにいるのも飽きちゃったっというのもあるのですが、日程を予定日の前に変更するのではなく、「予定は未定」の延期にしたのは、こんな理由からでした。

2007年07月16日

先祖がしたこと

 オーストラリアのとあるユースホステルでのことです。メルボルンから来た白人のおばさんと、オーストラリアの地図を見ながら気候や地形等の話をしていたのですが、ふいに、おばさんが第二次世界大戦で日本軍がオーストラリア人にしたことを話し出しました。私は未だ、英語をスンナリと理解できないので、おばさんが何を喋っているのかよく分からなかったのですが。とにかく日本軍はオーストラリア人に酷いことをした。そして、それは、私がほとんど何も知らない歴史だということを痛感しました。それで私は申し訳ない想いがして、そのおばさんに、「I'm sorry to hear that.」と言うと、おばさんは「アナタがしたことじゃない」と答えたのでした。

 私はこのブログで、アボリジニについて書いていきますが、どうしてもアボリジニの悲しい歴史について触れなければなりません。そして正直に言うと、私は、先住民である彼等が彼等の土地を失ってしまったことに同情的です。けれど、ここでブログを書き進める前に、皆様にご理解頂きたいことは、私は、今を生きる白人のオーストラリア人を非難する気は決して無いということです。

 私はオーストラリア人に感謝しています。この旅の中で、私は多くのオーストラリア人に助けられました。旅先で話しかけてくれては一人旅に素敵な経験をプラスしてくれました。迷子になれば、私の後を走ってまで追いかけてくれて、その場所までつれていってくれました。下手くそな英語を喋る私に、笑顔でつきあってくれるオーストラリア人と何人も出会いました。時には冷たい態度をうけ悲しい思いをすることもあるけれど。オーストラリア人の多くは、旅人にとてもフレンドリーで優しいです。それを有難く思っています。

 過去の歴史は過去の人間がしたことであり、今を生きる人間がしたことではありません。けれど、先祖がしたことについて、子孫は何らかの責任を持たなくてはならないのかもしれません。また、過去を別としても、今現在に問題が存在しているのであれば、それこそ、今を生きる人間が力を合わせて解決しなくてはいけないことなのだと思います。

2007年07月15日

Two Way

 アボリジニのコーナーでは、彼等の道具や工芸品等の他に、彼等の歴史も紹介されています。歴史を説明したパネルの見出しには、「Surviving the white Man's World」(白人の世界に生き残る)や「What are land Rights?」(土地の権利って?)など、彼等の厳しい歴史を反映したものが並びます。
 下の写真はその中の一つ。アボリジニと白人を端的に表現しているものと思うので、ここで訳してご紹介します(いつもの如く、誤訳をしていたら申し訳ありません。ご指摘ください)。
アボリジニと白人の説明

  
アボリジニの人々は土地の所有権を語る際に、このように言う。
  我々は、この土地に根ざしているのだ。


 アボリジニの人々は『We belong to the country.』と言うのですが、この英語の表現は、彼等の大地への考え方を反映していて、とても興味深いです。もし、『この国は我々のものである』と言いたいのであれば、文法的に『The country belongs to us.』となると思います。それではなくて、『我々は大地のものである(我々は大地に属する)』と表現するのです。

  
大地こそが、彼等の生活や社会様式、アイデンティティの核である。
  人々と大地の繋がりは、宗教的信仰に基づき、『Dreaming』から生まれる。
  彼等は大地を守る責任を受け継ぐ。年長者から、或いは配偶者を通じて。


  『The relationship between people and land』(大地との繋がり)という言葉をアボリジニの資料の中で非常に見かけます。アボリジニにとって、『大地との繋がり』は、最も大事なことのようです。彼等の思想の中枢と言っていいほどに。そして、このような文化を美しいと私は思うのです。

  
かつて、この土地に来たヨーロッパ人は、彼等と大地の宗教的な繋がりを理解できなかった。

 ヨーロッパ人の思想を私はよく知りません。ステレオタイプかもしれない一般的な見方からいえば、ヨーロッパ人は「自然とは利用し、人間の手で変えるもの」かもしれない。一方で、アボリジニ達にとって、「人間は自然の一部であり、自然に生かされている存在」だと、私は思うのです。このような全く正反対な文化が、この大陸で出会ってしまったのです。

 
 また、アボリジニの人々が特定の大地に義務と権利を有することを
  彼等は何処にでも行ける訳ではなく、全ての資源を利用できる訳ではない。


 上の文章は未だ十分に解釈できていません。全ての資源を利用できない、との部分には、少し心当たりがあります。彼等は、特定の動物を先祖として崇め(先祖が転生したもの?)、その動物を決して食用にせずに、傷つけることすら許さない文化を持っているようです。

 何度も書きますが、私は未だ英語がスラスラ読めません。そのため、目の前に優れた情報がたくさんあることを知っているのに、それを一気に読み切ることができません。それが非常に歯がゆく思えてなりません。一度に全てを理解することは無理なので、少しずつ少しづつ知っていくしかないのです。このアボリジニのコーナーも、全てを見て全てを読み取ることは出来ませんでした。それでも、彼等の歴史をパネルを眺めながら感じていくと、その歴史が余りにも過酷であることに、強い衝撃を受け、人間の歴史について考えさせられました。

 最後にもう一つ、印象に残った、1992年Noongarの年長者、Cliff Humphriesの言葉をご紹介します。

"We can have two ways.
We can have our Noongar way,and we can have the wadjak(white fellow)way."

(我々は二つの生き方が可能だ。一つは我々Noongarの生き方、そして、もう一つは白人の)

2007年07月14日

洞窟と神様

 西オーストラリア博物館のアボリジニのコーナーには多くの見所があり、その全てを紹介するなんてことは、残念ですが出来ません。そのため、私の印象に特に残ったものについて書きます。

 アボリジニのコーナーの奥まった所に、人工のミニ洞窟があります。そこには、この博物館に展示するために近年描かれた壁画があります。本やテレビでよく目にする、「これこそ洞窟にあるアボリジニの壁画だ」という壁画です。

 描かれているのは、西オーストラリア北部のキンバリーの神様です。神様という日本語訳はそれほど正しくないとも思いますが、八百万の神様がいる日本人の感覚には、この表現でも、しっくりくるかなとも思います。写真を撮らなかったので、その姿を正しくお伝えできないのですが(簡単な絵は描いたのですが)、この神様は有名なようで、オーストラリア各地の博物館などでも目にできるはずです。
キンバリーの神様の簡単な図
 神様の名は『Wandjina』です。面白いことに、この神様は、宇宙服を着ているように見えます。また、体一面にある点々が特徴的です。この神様について興味がわきましたので、この壁画の説明文を読んでみますと。頭の所に出ているもじゃもじゃは、羽や光を表現しています。頭は雲です。そして、体一面の点々は雨。そして、神様は洞窟に住んでいます。

 洞窟といえば、オーストラリアには洞窟が数多くあることを、こちらに来てから知りました。私は博物館も好きですが、洞窟もマニアの一歩手前ぐらいの勢いで大好きなんです。けれど、著名な洞窟であっても、日本とは違って、そこに行く公共交通機関が全く無いことが普通で、未だオーストラリアで車を運転する勇気がない私は、洞窟に思うように行けない無念に泣かされっぱなしです。それはさておき。

 パースから南へ、ワインの一大産地として有名なマーガレットリバーは、洞窟でも有名です。大小様々な洞窟があり、幸運にも何とか、私は代表的な洞窟を幾つか訪れることができました。その内の一つ、マンモスケープは、その名の通り、実に巨大な洞窟です。天井は高く、石筍はぎっしりと床にひしめき、ワイルドさたっぷりの洞窟には心躍りました。そして、出口の辺りで、ドームのように広々した空間にでますが、ここにアボリジニの壁画が描かれていたら、どんなに神秘的で畏怖の念でもって圧倒される光景になるかなと思いました。また、パースからマーガレットリバーの間には、ここで善と悪の神様が戦ったというアボリジニの神話が残る洞窟があります。神話と洞窟好きの私には外せない場所だったのですが、路線バスもツアーすらなく、涙をのみました。

 電気の照明になど絶対に照らされていなかった真の闇が支配する洞窟で、彼等は神様を感じたのでしょうね。

2007年07月12日

パースの博物館にアレ

 私は博物館や美術館の類が大好きです。展示物は勿論ですが、その説明文も足の疲れが許す限り、じっくり読みたいタイプです。オーストラリアの博物館は内容が充実している上、普通は無料なので、たまらないですよ(笑)。

 今回からパースに戻りまして、アボリジニのコーナーがある西オーストラリア博物館をご紹介します。フリーマントルやロットネスト島で断片的に出会ったアボリジニの歴史を、ここでまとまった形で知ることができました。しかし、優れた情報があったのに、それを十分に全て理解する力量が私にはなかったのですが。

西オーストラリア博物館
 西オーストラリア博物館はパース駅の近く、ショッピング街とは反対側の、図書館や美術館が建ち並ぶ一画にあります。ここは、コアラやカンガルー等の剥製や鉱物などが展示されている、博物学(natural history)のおもちゃ箱といった感じです。また、吹き抜けを囲むテラスに本棚が並べられている場所がありまして、そこがお洒落で好きです。
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 さて、アボリジニのコーナーに参りましょう。そこは中央玄関を入って右、建物の奥、階段を上った二階にあります。
 
 アボリジニのコーナーに入り、展示物を見始め、ほどなくすれば、おそらく大抵の日本人が、「こりゃなんだ?!」と思う展示品と出会えます。それは『ツチノコ』、らしきものです!下の写真をご覧下さい。そう、見えませんか?(笑)説明によると、これは「Five carved lizard(トカゲ)」という彫像。アボリジニの言葉で「Djalubardju」。英語訳に自信は無いですが、まとめてみました。はじめに、こんな一句が添えられています。
五匹のトカゲ
『The country was too hot for them in desert- they wanted to come back to river country』
(砂漠の暑さは耐え難かった。彼等は川に帰りたかった)

 この彫り物の作者は、Paddy Roeというブルーム出身のNyigina(アボリジニの部族名?)で、このトカゲはブルータンリザード。「Dreaming」である「Bugarrigarra」の物語を語る時に使ったそうです。それは『The Lizard people』が、グレートサンディ砂漠(ブルームの東にある砂漠)から、Loomaへと旅した物語。私は特徴的なアボリジニアートよりも、彼等の神話といえるDreamingの方に強い興味があるので、この物語の詳細をぼちぼち調べればなあと思っています。

 ちなみに、ブルータンリザードは、その名の通り舌が青いトカゲです。オーストラリアの住宅街にもいて、アデレードで私も見ました。案外、可愛いです。勿論手足があるトカゲですが、なんで、この彫像には手足がないんでしょうかね。また、これはキンバリー地方の物語ですが、キンバリーといえば、真珠がらみで日本人との交流があった所ですよね。ツチノコのルーツの一つにアボリジニがあるんじゃないかとか、勝手に妄想すると楽しいのですが。

 それにしても、外国の博物館で、日本と似ているものを見かけると、何だか親近感がわきませんか?

2007年07月11日

アボリジニの旗があがった

此処のブログは、出来事をリアルタイムでお送りしない、へんてこりんなブログなんですが、今回は、少しは旬な話題に触れたいと思います。
NAIDOC WEEK  
?? 一昨日、7月9日は『National Aboriginer's day』。そして、7月8日からはNAIDOC WEEK(National Aboriginal Islander Day Observance Committee)が始まっています(〜7月25日)。オーストラリア各地で様々なイベントが行われていますが、ここアデレードも例外ではなく、私もイベントを見に行ったりしています。今回は、私の体験したイベントをご紹介したいと思っていましたが、予想外の状況に遭遇したため、この件は後に回すことにしまして(また、NAIDOCの意味を未だ理解していないので)、もう一つの話題の方を。
ビクトリアスクウェアの二つの旗
 7月9日。アデレードのビクトリアスクウェアの空には、いつものように、二つの旗がはためいていました。お馴染みのオーストラリアの国旗と、もう一つはアボリジニの旗です。そして36年前のこの日。1971年の7月9日。このアボリジニの旗は、初めて、この場所に掲げられたのでした。その後、この旗はキャンベラにあるアボリジニのTent Embassyでも揚げられ、アボリジニの旗として親しまれるようになっています。
アボリジニの旗
 上の旗がアボリジニの旗です。オーストラリアに来るまで、私はこの旗を見たことがありませんでした。オーストラリアの街中でしばしば見ることができ、何かの行事の際など、アボリジニの人々がこの旗の手旗を手にしているのをよく見かけます。我らが日の丸に似ているのが面白いこの旗の意味するところが以前から気になっていましたが、つい先日アデレード市の資料で、少し分かったので書きます(参考資料:www.adelaidecitycouncil.com/reconciliationなど)。

 黒はアボリジニの人々、赤は母なる大地、真ん中の黄色い円は太陽を意味します。赤色はまた、アボリジニが儀式に使うochre(赤色の粘土)も象徴するそうです。旗をデザインしたのは、Harold Thomas。彼はアリススプリングスで生まれたアボリジニで、Austrakian Art Scoolを卒業した最初のアボリジニということです。
 公式な旗として宣言されたのは、1995年(The Flag Act:Section5)。私達が見慣れているオーストラリアの旗は『official』fragで、アボリジニの旗は『recognised』(承認、認知)flagとされています。また、今のように、アデレードのビクトリアスクウェアにオーストラリアの旗と並んで、永続的に掲げられることが決まったのは2002年とのことでした。

2007年07月08日

ロットネスト島の影

 ロットネスト島は、かつて、アボリジニの刑務所として使われていました。前回の共同墓地はその時代の彼等のお墓です。この後、私が訪れたバンバリーのギャラリーで、フリーマントル刑務所の展示会ESCAPEを見ましたが、『ロットネスト島に行きたくない!』という見出しのボードがあったことを思い出します。パースやフリーマントルを含むスワン川流域のアボリジニ達が、本土からこの島に送られました。その罪は、例えば窃盗罪だそうです。白人の入植者がカンガルーや海産物をとれば、アボリジニは入植者達の家畜をとる、といった。そして、この島に送られたアボリジニの多くが、ここで亡くなりました。どこかで読んでとても印象に残った文章があります。『彼等の多くが故郷を想う寂しさによって亡くなった』。

 刑務所の役目を終えたロットネスト島には、その後、白人の少年院が置かれました。また、塩の生産地としての過去もあります。というのも、ロットネスト島には塩の湖が幾つも点在し、塩分濃度が高いために結晶化した塩を、容易に湖の岸辺で見ることができます(今は塩を生産していません)。そして、第二次大戦時には軍事拠点としても使われました。そして今、ロットネスト島は夏のアクティビティを楽しめる、代表的なリゾート地となっています。そのような島の歴史にまつわる無料ガイドツアーもありますので、ロットネスト島にお越しの時は、ぜひ参加してみることをお勧めします。

 私の日記を読み返すと、明るく楽しかったロットネスト島のことを書いたページの裏側に、こんなことを書いていました。楽しいことだけを日記には書きたいものですが、書かずにはおれなかったことです。『アボリジニの影。アボリジニは本当に気の毒だ』。

 ホッとリフレッシュするための観光旅行をするなら、出来れば楽しくて幸せなことだけを見ていたいものです。悲しい歴史を知ってしまって悲しい気持ちになるのは、正直いえば、あまり嬉しいことではありません。しかし、フリーマントルやロットネスト島で、アボリジニの悲しい歴史に、ふと目が止まってしまった。観光地の所々で、彼等の歴史の断片に出会うたびに、私は気の毒に感じました。気の毒と言う言葉では到底表現できるものではないけれど、それがアボリジニについて何も知らなかった人間の率直な感想でした。


2007年07月06日

ロットネスト島の空き地

 フリーマントルからフェリーに激しく揺られて(この日は高波でした)、三十分ほど。ロットネスト島は、白い砂浜と紺碧の海がご自慢のリゾート地であります。しかし、私が訪れたのは、冬になろうかという秋。加えて、にわか雨に見舞われる生憎の曇り空。海で泳いでビーチに寝ころび、ガンガンの日射しを満喫するなんて遠い話です。旅行会社が何と言おうと、ここに来るなら夏ですよ!(笑)それでも、島を一周するBayseeker Busに乗り込んで、車窓から海を眺めれば。延々と続く『誰もいない』砂のビーチ、インド洋は雄大で、岩浜に次々と襲いかかるサーファーにはたまらないだろう勇壮な高波に、気分はスカッとしました。フレンドリーなバスの運転手さんの名所ガイドも面白かったです(数千円のバスツアーより、約七百円で乗り放題のBayseekerバス!)。それに、曇りだからこそ、時々出る晴れ間が見せてくれる、海の美しさがよく身にしみますね。

 また、色々と種類のある無料ガイドツアーで、もっとロットネスト島を楽しみました。例えば、クオッカツアー。クオッカは、この島にしかいないワラビーの仲間で、ピカチューみたいな大きさです。ガイドツアーではクオッカのいる場所へと案内しながら、生態などについて説明してくれます。道中、クオッカを見つけては、初めこそ喜んだものですが、島に一日もいれば至る所に存在することに気付きます。特に、クオッカは夜行性なので、夜になるほど出没し、私が泊まったユースホステルの前にも、とても慣れた感じで現れました。

 そのような感じで、ロットネスト島を遊びながら、船着き場やスーパーやレストランのある街の中心部をフラフラしていました。そこで偶然、街の外れで、ある空き地を見つけました。道路に面して、近くに家らしき建物もありましたが、そのガランとした空き地には何も無く、曇り空と相まって、どこか寒々としていました。寂しい感じがしました。案内板がありましたので読みました。そして、この場所が、アボリジニの『忘れさられた』共同墓地であったことを知りました。共同墓地の案内には、次のようなことが書かれていました。『彼等はここで酷い扱いを受けた。・・・・ここは共同墓地であることを忘れさられ、道路や家が建てられていた。・・・・この場所に敬意を払ってください』。

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2007年07月04日

フリーマントル博物館



? 旧フリーマントル刑務所は代表的観光地ですが、私はコワかったので行きませんでした。代わりに、昔の移民達の生活用品等が展示されているフリーマントル博物館に行きましたが、もしかしたら、こっちの方がもっとコワい場所だったのかもしれません。昔風のお洒落な建物(と、その時までは思っていた)博物館の奥へ進むと、『CELL→』と書かれている張り紙が貼られています。その意味を知らなかった私がさらに進むと小部屋に出ました。部屋には私だけ。さらに奥には真っ暗な部屋があるようで、入り口にあった案内をいつも通りに読み始めました。が、途中で心底ギョッとして、一目散に部屋から逃げ出しました。どうやら、幽霊がでるそうなんです。この博物館の建物は昔療養所に使われていて、半ば強引に収容された患者も多くいた。その幽霊を目撃する人もいれば、目撃しない人もいるとか何とか。『CELL』とは個室や独房を意味するのでした。





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? さて、ゴーストな前置きが長くなりましたが、フリーマントルの移民の歴史を遺物と共に紹介するこの博物館は、フリーマントルに住んでいたアボリジニに関する情報を得ることもできます。私が興味を持ったのは、フリーマントルの年表でした。残念ながら、この旅の時分、未だ私にメモを取る習慣が十分に無かったため、記憶を頼りに書きますが。一番印象に残ったことは、スワン川流域(パースやフリーマントル)の入植が開始された、かなり初期の段階で、はしか(だったはずです、入植者が持ち込んでしまった伝染病の類であるのは確か)によって、大多数のNoongarが亡くなったことです。Noongarはスワン川流域に住んでいたアボリジニです。今、アボリジニの資料を少しずつ読んでいますが、「はしか(伝染病)により多数の方が亡くなる」という記述をちらほら見かけます。白人の入植が進むにつれアボリジニの抵抗も起こり、結果的に抑えられますが、これは直接の戦いの影響だけでなく、病気の影響というのも無視できないほど大きいような印象を持っています。それが何を意味しているのか、その背景にあるものは何だったのかは、未だ分かりません。

? フリーマントルは、この地方に住んでいたアボリジニにとって、かけがえのない夏のキャンプ地だったそうです。ここは、食料である海産物も取れ、豊かな土地です。そのアボリジニにとっての楽園に、スワン川植民地の刑務所がおかれ、悲しい歴史の地となってしまいました。


2007年07月02日

ラウンドハウス

? フリーマントルは、電車でパースのシティから30分ほどで着く、明るい港町です。週末にはマーケットが開かれ、シティ近郊の代表的観光地として観光客が多く訪れます。実は、ここの観光名所には、ちょっと変わった特徴があります。旧フリーマントル刑務所を筆頭に、同じく刑務所のラウンドハウスや、患者を強制収容した過去を持つ元療養所のフリーマントル博物館など。なかなか、おどろおどろしい名所の多いフリーマントルには、夜、これらの名所を回るゴーストツアーもあるそうです。

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? 私が訪れたラウンドハウスは、西オーストラリア州最古の公共建造物で、白人による入植が始まった初期、1831年にスワン川植民地の最初の刑務所として建てられました。名前が示す通り『ほぼ』円筒形の建物は、敷地面積はオーストラリアの一軒家程度と思ったより小さく、中庭に井戸があり、大人二、三人が寝られればやっとの狭さの独房がそれを囲んでいます。
? 光り輝く青空の下、こぢんまりとした白い建物は、一見すれば悲惨な過去を全く感じさせません。しかし、ここはアボリジニにとって特別な場所であります。実際に刑の執行も行われた、この刑務所は、後に、ロットネスト島に連行されるアボリジニの一時拘置所として使われました。そして監禁されている間に、多くのアボリジニが亡くなりました。
 ラウンドハウスは海岸の高台の上にあります。そして、ラウンドハウスを出てすぐの所に、インド洋の大海原を遙かに望める見晴台がありまして、とても眺めが良いです。私がここを訪れたそもそもの理由も、この眺めを楽しむためでした。
 何故、こんな良い場所に刑務所があるのだろうか?ふと疑問に思いました。刑務所は人里離れて、ひっそりあるイメージがありましたが、ここは海の景色が素晴らしい上に、街中といってもいい場所にあります。そこで、下手くそな英語でラウンドハウスのスタッフに尋ねてみました。答えは、海の側で搬送がしやすい。また、街の目立つ場所に刑務所があることに、どうやら意味がある(?)ようでした。リスニングが苦手なので間違っているかもしれませんが、刑務所の持つ意味が、どうやら私の想像と違っているような気がしました。
? ラウンドハウスがある高台の下には、美しい砂浜があります。明るい日差しの中、一組の親子が、そのビーチで遊んでいました。とても和やかな光景でした。この輝く砂浜を、狭いラウンドハウスに閉じこめられた囚人達は望めたのでしょうか。小さな中庭から、高い壁に囲まれた青空を見上げていたのでしょうか。ビーチでくつろぎながら、ぼんやり考えました。
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